007 世界の始まり 4
駆けてくる犬の姿に思わず身構えたマリコは、チラリと隣にいる少女を見た。
少女は既に立ち上がっていた。マリコがループしている間にアイテムボックスにしまったらしく、もう籠は持っていなかった。
(この子を抱えて逃げるか、いっそ前に出て壁になるか)
前に出ようと足を踏み出しかけた時、少女はいきなりそちらに向かって走り出した。
「なっ!?」
「お父さん!」
「は?」
「ラシーもおいで!」
「え?」
男に手を振りながら走っていく少女の足は意外に速く、あっという間に犬とすれ違うと、犬にも声を掛けてそのまま男の方に駆けていった。すれ違って置いてけぼりにされた犬は、急停止してワンと一声鳴くと、ピョンピョンと左右に飛び跳ねるように少女を追いかけていく。
マリコが正面から見た時には犬だろうとしか分からなかったが、目の前で方向転換していったそれは細長い顔をしており、全身をふさふさした長い毛に覆われていた。毛並みは全体的に明るい茶色で胸の周りなど所々が白い。どう見てもコリーの類である。
「コリーで、名前がラシー……。どこの名犬ですか」
気が抜けて一瞬へたり込みそうになったマリコはぽつりとつぶやくと、握り締めていた拳を下ろして二人と一頭の方へと近づいていった。
◇
マリコが二人の近くまで来てみると、少女は彼女の父らしき男に説教されているところだった。
改めて男を見ると、見た目は三十歳くらいで短めの髪と瞳の色は青。背は百七十五センチ前後で、マッチョというほどではないが結構筋肉の付いた頑丈そうな体つきをしている。色も形もブルージーンズにしか見えないズボンをはいており、厚手のワイシャツの様な薄青の服の袖は肘までまくり上げられ、裾はきっちりとズボンに入れられていた。首に手ぬぐいを掛けており、足元は茶色い長めのブーツで、左腰に短めの剣を下げている。
顔立ちはやはり西洋人系で、太目の眉と目つきがやや無骨な印象ではあるものの、口元やすっきりした鼻筋は少女とよく似ていた。日焼けして赤味がかっているが、元々の肌は娘と同様、かなり白いのだろう。ズボンやブーツは草や土で少し汚れており、仕事中の農家の人という外見なのだが、腰の剣も付け慣れた感じなのでおそらく心得があるのだと思われた。
「……だから、誰かが転移してきたら危ないからって、いつも言ってるだろう?」
「ごめんなさい、お父さん」
マリコに聞こえてきた話からすると、どうやら男が「そこから離れろ」と言ったのは、犬から逃げろという意味ではなく、転移門から離れろということだったらしい。考えて見れば確かに、門の前に立っている時に誰かがこの門に転移して出て来たら、ぶつかられて弾き飛ばされる事になるだろう。
ゲーム上ではキャラクター同士が接触して弾かれたりするのは戦闘時などに限られていた。それ以外の普通の時には、キャラクターの位置がとても近い場合でもぶつかることなく重なって描画されていたことをマリコは思い出した。実体としての身体がある状態ならそんなことはあり得ない。
(この身体にはちゃんと形も重さもあるし、感覚も普通にある。ゲームの中かどうかはともかく、今の私にとってはこれが現実という前提でいた方がよさそうだ。分からないことが多すぎるし、下手な事をしてこの体で怪我したり死んだりしたくないし。当面はこのまま、いつもの「マリコ」でいくことにしよう)
「あの、すみません。私が娘さんにご迷惑を掛けてしまったようで、申し訳ありません」
元のゲーム内のチャットでは、マリコは基本的に敬語で話すことにしていた。敬語を使い、一人称が「私」というのは社会人として慣れてもいたし、数年間の経験からチャットであっても口調が丁寧な方が話が通じやすく、ケンカなどにもなりにくいと感じていたからだ。
「ああ。あんたは……!?」
マリコが男に声を掛けて軽く頭を下げると、返事をしようとした男はマリコの方を向いたところで固まった。口を半分開いたまま、ゆっくり三つ数えるほどの間マリコの顔を見つめ、一度視線を少し下げた後、また視線を戻してマリコの顔を見つめた。
「あ、あの、なにか……?」
「……」
マリコが呼びかけても、男は呆けた顔で固まったままだ。
「お父さん? ……お父さん!」
「うごっ!? お、おぅ、どうしたアリア」
ドスッ、と娘から腹にパンチを喰らって、やっと男の硬直が解けた。
「おねえちゃんがキレイだからって見惚れちゃって。お母さんに言いつけていい?」
「いやいや待て待てやめろやめろ。今はシャレにならん」
(そういえば、ろくに名前も聞いてなかった。この娘はアリアというのか。それにしてもキレイって、今の私はどんな顔になっているんだろう)
さすがにゲームのままの、可愛いがデフォルメの効いたアニメ調の顔ではないだろう。ドツキ漫才を始めた父娘を見ながら、マリコは自分の頬に手を当てて思った。
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