068 入浴時間 4
マリコは手桶で自分の桶に湯を汲んでまずは顔をざっと洗い、次に片手で手桶をゆっくりと傾け、細めの湯の流れを身体の上から順に当てながら、もう一方の手で湯の当たった所を軽くこすっていく。とりあえず、砂埃などの大きな汚れを洗い流すためである。
(ああ、シャワーが無いお風呂ってなんか久しぶりだな)
自分の身体の凹凸に対する違和感は無視して、マリコは懐かしい気分に浸っていた。湯船や桶から立ち昇る木の香りも、久しく嗅いでいなかったものだ。
今の日本でこそ各種の給湯器が普及してシャワーはごく一般的なものになっているが、ほんの数十年前まで一般家庭にはシャワーなど無かった。この宿屋の風呂と同じように、湯船で沸かした湯を汲んで使っていたのだ。アパートなどの集合住宅では風呂が無いことさえ珍しくはなかった。
身体に掛ける湯を細くゆっくりにするのは湯を節約するためである。外からでないと沸かせない作りの風呂で、入っている途中で湯を使い切ると面倒なことになる。
(まあ、この大きさの湯船なら、ちょっとやそっとじゃ無くなりそうにないな)
マリコは顔を上げて、サニア越しに湯船を眺めた。木でできた湯船は、腕の部分を除いて四メートル角くらいある。最後だと言うだけあってさすがにあふれるほどではなかったが、それでも三、四人が使って浸かるには十分な量の湯が残っていた。
マリコがふと視線を下ろすと、サニアが自分の桶の中身を取り出して目の前の台に並べていた。石鹸、手鏡、栓のついた細身の陶器の壜が二本に剃刀。剃刀は柄に何も巻かれていない、床屋で使われるような直刃の少し大きめの物だった。
(折り畳みじゃない剃刀っていうのは日本式だったんだっけ? あ)
剃刀を目にしたマリコは、今朝、顔を洗った時のことを思い出して自分の口元に手を当てた。いつものこの時間なら伸びた髭でザラついているはずの鼻の下やあごは、朝と変わらない感触だった。それでも改めて撫でてみると、鼻の下にはうっすらと柔らかい毛が生えているのが分かる。
(やっぱり産毛みたいなのは生えてるのか。ちょうどいい、サニアさんに聞いてみるか)
「サニアさん、少し聞いてもいいですか?」
「何かしら?」
掛け湯をしていたサニアが振り返る。マリコは湯が流れ落ちる胸元を見つめ過ぎないよう気をつけながら、タリアにでもするつもりだった質問をしてみることにした。
「ええと、顔って、剃刀を当てるものなんでしょうか?」
「え、顔? ああ、産毛のこと? もちろん剃るわよ。ってマリコさん、あなた……」
サニアは少し怪訝そうな顔になると、首をかしげながらマリコの顔を覗き込んできた。
「遠目には分からないくらい薄いけど、生えてるわね。マリコさん、もしかして剃ったことがないの?」
「ええと、いえ、そういうわけではない……と思うのですが」
マリコは返事に困った。もちろん、髭は毎朝剃っていた。髭が濃い性質ではなかったが、さすがに一日放っておくと一ミリくらいは伸びるからだ。ただ、今の身体でどうなのかが分からない。産毛の伸びる速さというものがそもそも分からないが、先ほど自分で触って感じた長さまで一日で伸びるとは思えなかった。
(電動シェーバーで剃ってました、とも言えないし、ええと)
「そういう剃刀を、自分で使った覚えがなくて……」
「あら、じゃあ誰かに剃ってもらってたのかしらね。まあ、その辺はいいわ。肌が荒れたりすることがあるから、さすがに毎日ではなくてもいいけど、何日かに一度は剃った方がいいわよ。ミランダでもそのくらいはやってるもの」
「私をガサツ者みたいに言わないでいただきたいな、サニア殿」
引き合いに出されたミランダが、マリコの後ろから抗議の声を上げた。
「しかし、サニア殿の言うとおりだぞ、マリコ殿。乙女が髭を生やしているのはさすがにどうかと思うぞ」
「う」
「まあ、マリコさん。心配しなくても今日のところは私が剃ってあげるわよ」
「えっ!? いえ、剃刀を貸していただければ自分でやりますから……」
「使ったことがないんでしょう? いきなり顔剃ったりしたら切るわよ?」
「ううっ」
確かに、直刃の剃刀で顔を剃る自信は無い。電動シェーバーと安全剃刀しか使ったことのないマリコは、さすがにその言葉を否定することができなかった。
「顔は腕とか足で練習してからの方がいいと思うわよ?」
「はい……」
「じゃあ、これを使って先に顔を洗ってからね」
◇
手渡された石鹸を泡立てて洗顔を済ませたマリコは、サニアと向かい合って座っている。今度はサニアが石鹸の泡の塊を作って、マリコの顔に塗りつけていく。
(さすがにシェービングクリームは無いのか)
「ついでに眉の方もやるから、はい、目を閉じてー」
顔中を泡だらけにされたマリコにサニアが剃刀を当てていく。眉の下側を剃られた時にはショリショリとした感触があったものの、鼻の下辺りでは撫でられたような感覚しかマリコには感じられなかった。
(髭よりずっと柔らかいものなあ)
「はい、おしまい。顔洗っていいわよ」
「ありがとうございました」
マリコは礼を言って台の方に向き直ると、桶に汲んであった湯に手を入れて顔に残った泡を落としていく。
「あらっ?」
剃刀を洗い流しながら、ふと顔を洗うマリコの方を見たサニアが声を上げた。
「え?」
「いえ、今はいいのよ。続けてちょうだい」
顔を上げかけたマリコを少し硬い声のサニアが止めた。
◇
顔を洗い終えて顔を上げたマリコを待っていたのは、真面目な顔をしたサニアだった。
「マリコさん、もう一度さっきみたいにこっちを向いてくれる?」
「え? はい」
サニアの硬い声音に、マリコは畏まって座り直す。二人は再度向かい合った。
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