487 道の向かう先 10
湯船の縁を跨いだマリコは、そのままちゃぽんと身体を沈めると、縁に沿って設けられている段に腰を落ち着けた。勢いで一旦沈んだ双丘がぽかりと浮き上がって丸い波紋を広げるのも、さすがにもう何とも思わない程度には見慣れた光景である。
足を真っ直ぐ前に伸ばして湯船の縁に背中を預けたマリコは、湯気でわずかに煙る天井を見上げてふうと大きく息を吐いた。初めてここに入った時にはもうもうと渦巻いていた湯気も、夏が近付いた今ではめっきり薄くなっている。
「どうなされた、ため息など吐いて」
先に浸かっていたミランダが腰を横にずらしてすぐ隣りへと詰めてきた。その向こうに入っている龍組三人の内のコウノが中間形態の翼をバチャバチャやり始めたので、避難してきたのかも知れない。
「ため息、という訳でもないんですけど……」
マリコはそう答えたものの、ミランダには半ば嘘であるとバレている。気を抜いている時なら、お湯に入った途端に「ああ゛ー」と微妙におっさんくさい声を上げて蕩けているのを、大抵一緒に入っているミランダが知らない訳がないのだ。
「洞窟探検は気が乗られぬか」
「いえ、そういう訳でもないんですけど……」
――可能な限りの最大戦力を以って、迅速に洞窟内の情報を集めておきたい
夕方前の話し合いで、バルトはそう言ってマリコとミランダに今回見つかった洞窟――東二号洞窟と呼ばれる事になるそうだ――の調査への同行を求めてきた。未踏破の洞窟調査である上に岩の魔物が居ると分かっている、つまり戦闘が起きる事が確実なのだから、通る通らないはともかく、この要請自体は特に問題は無い。
この世界における洞窟は単なる穴ではない。魔力が溜まり易いからとはされているが、地上では見かけることのない魔物――魔力生物――が発生するのだ。動物と同じように、魔物にも危険なものやそうでないものが居る。そして、こちらも動物と同じように、何らかの素材が摂れるものも居る。
マリコがこれまでに見たものでは、東一号洞窟や西二号洞窟に居るスライムからは現代日本でいう合成樹脂に類する物が摂れる。特別な素材は摂れないらしい岩の魔物でも、大量の魔晶が得られるのである。タリアやエイブラムが教えてくれたところによると、他の地方では金銀やミスリルといった貴金属を多く含んだ身体を持つ魔物も居るのだそうだ。そういう意味では洞窟はある種の鉱山であるとも言え、場所によってはそうした魔物を狙って狩る探検者も居るという。
もっとも、ナザールの里のような最前線では、主に人が少ないという理由からまだそこまで手が回っていない。基本的に洞窟から出て来ないのだから、探検者の方に余裕がある時にぼちぼち調べればいい、という程度のスタンスなのである。
しかし、今回は少々事情が違った。ゴケンが落ちてかき回してしまったというのもあるが、「龍が岩にバックドロップを掛けた程度」で天井が抜けてしまった事も問題なのである。龍も岩も人よりはずっと大きく重いが、自然に起こる災害に比べれば微々たるものなのだ。それで穴が開くということは、洞窟の上部あるいは周囲全体が脆くなっている可能性が高い。
そして、何らかの理由で本当に大穴が開いた時、中に居たものはどうなるのか、どうするのか。洞窟から出てしまった魔物がどういう行動を取るのかは、何かを追いかけた場合以外の例がほとんど無く、よく分かっていないのだ。この懸念からバルトは迅速にと言ったのである。
(心配事はいろいろあると言えばあるんですけど)
修復の事や転移屋の事も気にはなるが、修復についてはエイブラムが予定を調整してくれるので任せっぱなしである。転移屋の方は龍の国へ行ける者がある程度増えてきたので、マリコが居なければどうにもならないという状況は一応脱していた。
女神のクエストもマリコとミランダが二人同時にバルトたちと出掛けると困りそうなのだが、今回の探検は一泊か二泊の予定だという。洞窟入口までの行き帰りはゴケンたちに頼んで時間を詰め、内部の調査を集中的に行いたいそうだ。他にもクエストの実行者が居るらしいことを考えれば、何とかなるのではとも思える。
(問題は……)
「バルト殿か?」
「ええ!?」
考えを進めたところでミランダの口からそのものズバリが転がり出て、マリコは思わず声を上げた。
「いや、我らの参加について、バルト殿にしては断定的に決めて掛かってくるなと思ったのだ」
マリコも同じ事を感じていた。今回に限って、これまでより押しが強い気がしたのである。結局、バルトたち五人に加えて、マリコとミランダ、それにシウンが同行することに決まった。ゴケンたち三人の龍も加わりたがったのだが、洞窟内では龍の姿になるのが難しい事と、人数が多くなり過ぎるという理由で輸送班ということになっている。準備に加えて、バルトたちは今日までの分の処理もあるので、出発は明後日の予定だった。
「そうなんですよねえ。何と言うか……」
「ああ、やっぱり大きいお風呂はいいわねえ」
マリコがミランダに答えかけた時、身体を洗い終えたカリーネたちも湯船に入ってきた。小型の湯船を持ち歩くようになったとはいっても、現地ではあまり長湯もできないようで、三人共かなり丁寧に洗っていたらしい。
隣りに並んで浸かった三人に、マリコは顔を向けた。この三人もバルトに同調するように、マリコたちの参加を押したのだ。
「ねえ、カリーネさん」
「何かしら?」
「バルトさん、何かあったんですか?」
「え!?」
「いつもと様子が違うような気がしたんです、今日」
「そうかしら?」
「違わないよな。な、サンドラ!」
「え? あ、うん。ボクも違わないと思う」
カリーネに同調するように、ミカエラとサンドラが揃って首を横に振った。サイズの違う山が揺れ、それぞれに見合った波を立てる。カリーネはともかく、どうにも怪しさの隠しきれていない二人に、マリコは目を細めた。
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