479 道の向かう先 2
「どうしたんだい、アリアちゃん!? マリコさんならほら、あそこに居るよ」
ちょうど入口近くの席で食事をしていた中年の女性があわてて立ち上がると、アリアの腕を取って支えながら厨房を指差した。彼女は厨房のパート組の一人で、遅めの昼食を取っていたところである。
「え!? おねえちゃん、ここに居るの!?」
何故か驚いたような声を上げるアリアの前に、カウンターの中から出てきたマリコやサニアを始め、食堂の面々が集まってくる。
「何かあったの、アリア!?」
「怪我人ですか!?」
サニアとマリコが続け様に問い掛けた。里全体で言えば治癒を使える者は何人か居るが、マリコの腕が群を抜いているのは皆の知るところである。そのため、今のようにマリコが呼ばれるのは、重傷者か急病人が出たに違いないと思われるのは無理からぬ事だった。
「ハァ、ううん、誰も怪我してない。実は……」
時折、切れた息を整えながら、アリアは自分が見てきた事を話し始めた。
◇
「何、新しい道を見てみたい?」
「うん!」
放牧場の手前の方にある家畜舎まで昼食を届けに来たアリアは、聞き返してくるカミルに勢い良く頷いた。十歳という何にでも興味の湧く年頃である。このところのナザールの里は、人も増え新しい建物もできと、アリアの好奇心を大いに刺激していた。東に向けて作られているという道もご多分に漏れない。
そもそもアリア自身はまだ、まともに里から出た事が無い。その上、その道が遥か龍の国を目指して伸びていると聞けば、いくら単なる石畳の道だとか龍の国が見える訳じゃないとか聞かされても、気にならないはずがなかった。
とは言え、件の道は放牧場の奥の端から伸びている。里の中ではあるにしても、一人で勝手にそんな所まで出掛けて行けば皆を心配させる、ということが分かるくらいの分別はアリアにもあった。故に自分に付き合ってくれそうな相手を待っていた。娘にと言うか女性全般に甘い、父親である。
そのカミルだが、このところ龍の国との往復でちょくちょく里を留守にしていた。だがさすがに、牛たちの世話をずっと仲間任せにする訳にもいかない。今日はこっちで仕事を片付けていたのである。アリアにとってはチャンスだった。
「バルトたちが行ってるやつかあ……。俺もここんとこ、あっち側には行けてないしな。よし、一緒に行くか?」
「やった!」
アリアの作戦は成功したようだった。牧羊犬のラシーを加え、二人と一頭は家畜舎を後にする。
放牧場はナザールの里の東側、緩やかな斜面に広がっている。しかし、そのすぐ東から南に掛けては小高い山になっており、その麓に沿って一旦北に向かい、山の北端を東に回りこんだところまでが現在の放牧場の範囲だった。所々崖になった山を右に見ながら進んで行くと、やがて放牧場と外とを隔てる柵が見えてくる。
「あ! あれが新しい門?」
東の端に近付いたところで、アリアが声を上げた。柵の一部が切り取られて、開閉できるようになっているようだ。
「門って言うほど立派なもんじゃないなあ。じきに柵ごと作り直すはずだから」
カミルが苦笑気味に答える。マリコや龍の国の事があって人や建物が増え、土地の需要も増えるのが明らかになったことで、ナザールの里は何度目かになる拡張が決まった。まずは今放牧場を囲んでいる柵の東から北側を前進させることになる。そうして放牧場を一度広げた後、今度は里と放牧場の間にある柵を放牧場側へ移設して、中心部――農耕地や住宅地に使える範囲――を広げる予定なのだ。
マリコがここに現れてすぐの頃、灰色オオカミの群れの襲撃で壊されたここの柵は、一旦は修理されたものの、道をつけるということで今度はそこに簡易な扉が作られた。これはカミルが口にした通り、仮設の物なのだ。拡張計画が動き出せば、ここは恐らく一番に手が入るだろう。もっと東寄りに、新たな柵とまともな門が作られるはずである。
柵は横木を積んで柱に固定したもので、オオカミなどがそう簡単には飛び越えられないだけの高さがある。それはもちろんアリアの身長より高く、横木の隙間から覗くしかなかった。
「おおー、あれが道。……でもあんまりよく見えない。外に出てみてもいい?」
「柵から向こうは危ないんだから、ちょっとだけな」
元々、柵の近くはある程度木が切り払われており、隙間から見る限り近くに動物の姿は無い。すぐ中に逃げ込めるようにすること、と注意を加え、カミルは扉の閂を引いた。扉が開くと、そのすぐ前から約一メートル幅の石畳が敷かれている。
石畳は魔法によって土を硬化させて作られたものなので、色は土のままである。見た目で言えば石畳というよりレンガ敷きのようだった。割と几帳面なトルステンの性格が出ているのだろう。百メートル程先でカーブする所まで、それが東に向かってきっちりと真っ直ぐに伸びていた。
「すごーい」
数歩踏み出したアリアが、新しい道の上でピョンピョン飛び跳ねながら感嘆の声を上げた。田舎の里であるナザールには、そもそも舗装された路面というものがほとんど無い。宿の建物の周囲にわずかにある程度で、基本的にどこも踏み固められた土のままである。ここまでまっすぐ長い石畳など、カミルでさえ初めて見たのだ。
「ほんとにすごいな……」
「ウー、ワンワンッ!」
アリアに続いてカミルが扉をくぐったところで、突然ラシーがその脇を抜けてアリアのさらに前へと飛び出した。アリアを守るように踏ん張り、道の奥に向かって吼える。次の瞬間、道の脇の薮から何かが飛び出してきた。
「えっ?」
「オオカミ……? 灰色オオカミ!?」
それはここしばらく近くで見掛ける事の無かった種類のオオカミだった。そのカミルより大きな身体は、時々出てくる小柄な茶色オオカミの比ではない。ラシーの援護があったとしても、カミルでは勝てるかどうか分からない。ただ幸いな事に、出てきたのはカーブのすぐ手前だった。柵の内側に逃げ込むだけなら十分間に合う。カミルは踏み出すと、娘へと手を伸ばした。
「戻るぞ、アリア!」
「う、うん!」
目は前に向けたまま、カミルはアリアの腕をつかむ。しかし、二人が下がり始める前に、灰色オオカミの後から、それを追うようにもう一つの影が躍り出た。人だ。灰色オオカミが向こう側へ飛び退る。後から来た誰かはカミルたちに背を向けたまま、それを追って無造作に突っ込んだ。
「ギャフッ!」
「ええっ!?」
灰色オオカミが断末魔と共にあっけなく倒れる。それを成したであろう人物は得物をビュッと一払いして動きを止めた。
(短剣?)
恐らく血を払ったのだろう。伸びた腕の先にある武器に気を取られたカミルがそう考えた時、その人物はこちらを振り返る事無く、飛び出してきた薮の中へと再び飛び込んで消えた。その顔をカミルたちの方へ真っ直ぐ向ける事は無かったが、一瞬だけ無事を確かめるように視線を向けられたのがカミルには分かった。
下がる事も忘れて固まった二人と一頭の前に再び誰かが現れる事は無く、倒された灰色オオカミだけが残された。
◇
「その、助けてくれた誰かは、おねえちゃんだと思ったの。遠くて顔は分からなかったけど、同じ服だったし、背丈も似てる感じだったし……。でも、髪はもっと黒っぽかったかも知れない」
結構遠くだったから、と付け足すように言って、アリアは一旦言葉を途切れさせた。
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