472 異変 14
ギャラリーが見守る中、ギリリと弦が引き絞られ、マリコの手にした弓が深い弧を描いた。三十メートルほど先、宿を囲む壁の手前には木でできた的が立っている。ここはナザールの宿の一角にある運動場であり、ここまでだけなら特に何も問題無い、いつもの練習風景だった。
「来られよ!」
ただ一つ普通と違うのは、的の前にミランダが仁王立ちしている、という事である。銀となった髪や服の裾が風に揺れている。猫耳メイドさん姿のままで、武器も盾も手にしていなかった。そのミランダの声に、構えていたマリコは静かに矢を放つ。それは過たず、ミランダの胴体の真ん中へと命中した。
「ぐっ!?」
しかし、ミランダは小さな呻き声と共にわずかによろけただけだった。矢の方も、刺さる事なく地面に落ちている。よく見ると、その先には鏃が付いていなかった。代わりに綿を包んだ布が巻き付けてある。たんぽ槍ならぬ、「たんぽ矢」だった。ミランダの足元には、それが既に何本も散らばっている。
「けほっ、ありがとうマリコ殿。今日はここまでにしたいと思う」
鳩尾の辺りを軽く撫でたミランダが手を挙げると、見学していた者たちの口からほうと安堵の息が漏れた。いくら鏃が付いていないとは言え、マリコの弓の的になるのだ。当たり所が悪ければただでは済まない鍛錬方法に、皆若干腰が引けつつも見守っていたのである。
「どうでした?」
「まだまだのようだ。威力は軽減できているが、マリコ殿の矢はまだ受け流せぬ。だが、この通り」
落ちていた矢を拾い集めて戻って来たミランダは、マリコの前で両腕を広げてみせる。その髪や裾は、まだ風に揺らめいていた。目の前に立っているマリコはそんな事にはなっていない。ミランダが自分に掛けた風防護が、まだ効果を失っていない証拠だった。
◇
昨夜、女神の部屋から女神の間へと移動したマリコは、やる気に満ち溢れたミランダに迎えられた。「剣のスキルレベルが遂に二十に達した。次は何を取るべきか、伸ばすべきか」と輝く瞳で問われてしまえば、それに水を差すかも知れない話を持ち出すのもためらわれる。そのままミランダの育成相談になってしまい、風と月の女神の後釜に関する話は未だにできていない。
参考までにミランダから聞き取った女神の鍛錬場の仕様は、概ねゲームのシステムをそのまま持って来たようなものだった。任意の相手と対戦でき、経験値が得られる。ただし、倒した相手の身体が後に残らないので、食材や素材は手に入らないという。マリコの感覚だと経験値付きの戦闘シミュレーターといったところだ。
(まあ、ミランダさんが出所不明の食材を大量に持ち帰るのも不自然ですし、女神様の現状を考えても……)
後まで残る物質を作り出すというのも神の力を使いそうな事柄ではある。力の節約も考えての事なのだろうとマリコは思った。内容が戦闘に偏っていて生産系スキルの鍛錬が無さそうなのも同じ理由だろう。もっとも、生産系スキルの場合、できあがった物が手元に残らないのでは鍛錬する本人のモチベーションが上がらないような気もする。
ともあれ、ミランダ自身の希望とマリコの助言をすり合わせて、いくつかのスキルを取る事になった。「風」系統の魔法の強化を望んだのはもちろんミランダであり、その一つが風防護である。
「○○防護」は、一定以下のダメージや状態異常作用を無効化する防護の属性版である。ゲームでは地水火風と四種類有り、それぞれの属性物をまとうことで同じ属性の攻撃によるダメージなどを軽減または無効化するという設定だった。
しかし、これは珍しく「現実」で設定通りにやってしまうとどうなるかという見本のようなスキルになっていた。何せ属性物をまとうので、見た目がそれっぽくなってしまうのだ。地水火だとそれぞれ、土まみれ、粘液まみれ、火達磨に見えるようになる。幸い掛けた本人に悪影響は無いが、近くに居る仲間がまずびっくりするという。そういう意味では、透明な風防護が一番無難とされていた。
その風防護だが、風属性の攻撃に限らず、投石や矢などの飛来物もある程度防いでくれる。ただし、スキルレベルが低い場合や強い攻撃を受けた場合などには、軽減分を越えたダメージが通ってしまう。先ほどのマリコの一撃がそれだ。
それでも、スキルの修練内容に「風防護時に攻撃を○○回受ける」や「~超過ダメージを○○回受ける」がある以上、やらないとレベルが上げられない。ギャラリーの心臓にも悪そうな修練だが、屋内で弓を射るのは無理がある。致し方なし、とミランダのような事を考えながら、マリコは弓の弦を外した。
◇
転移屋に治療にと、調理からある程度外してもらって尚、昼間のマリコは忙しない。夜は夜で、ミランダ共々人助けクエストが増えてきており、二人で落ち着いて話す時間が取れない。そうこうしているうちに日が過ぎていく。
専業の転移屋の話も動き出し、希望者も居るらしいのだが、さすがに三、四日ではまだこちらに着いていない。移動だけならともかく、ナザールの里に引っ越す事になるのだからこれは仕方がないだろう。もっとも、この希望者を一度龍の門へと送る役目は、カミルが受け持つ事になった。一往復に二日掛かりとなってしまうが、これ以上マリコに往復させるのは無理という判断らしい。
「公認の一泊旅行がまたできるんだ。楽しんでくるさ」
そう言って笑っていたカミルだったが、その際に持って行く仕事、向こうでの仕事、持って帰ってくる仕事とタリアに予定を積み上げられ、途中から泣きそうになっていた。
そんなある日の夜、次の異変はマリコ自身に起こった。
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