471 異変 13
太陽は星空の中天にあり、照り付ける陽光が石畳を白く輝かせる。そこに落ちた黒い影が二つ。大きさは倍ほども違う。影の主たちは、一息で詰められそうな距離を置いて向かい合っていた。だがじきに、大きい方が焦れたように動きを見せる。
「ブゴッ!」
短い吼え声と共に、石畳を蹴る後脚の蹄の音が響いた。十分に力強いその後脚よりさらに発達した前脚は人の背丈ほども長く、太さも人の胴回りに匹敵する。焦げ茶色の毛皮に覆われ、牙を生やした長めの顔にゴリラの様な体型。並みのものより二回り以上は大きいその野豚は、確実に群れのボスクラスかそれ以上だった。突進の勢いを乗せた、巨大な拳が振りかぶられる。
その向かう先に何気ない様子で立っているのはミランダだ。いつもの通り、マリコから譲られたショート丈のメイド服を身に着けているが、いつもと違ってその手には刀が無かった。まだ抜いていないという訳ではない。いつもなら刀が存在感を放っている腰に、何故か今は一振りの短剣が下げられていた。
大野豚の拳が撃ち出された。両手をダラリと下げたミランダは、弧を描いて迫り来る拳に気付いていないようにさえ見える。だが、それが己の顔にめり込む寸前にスッとわずかに身体をひねった。焦げ茶色の塊が目の前を通過していく。
(かわすだけならさして難しくもないのだがな)
空振りに気付いた大野豚が次の拳を放ってくるのをさらにかわしながら、ミランダは思った。振り回される両腕には重さも速度も乗っており、当たればただでは済まない。しかし、振られるパターンが単純なので、軌道を読んで避けるのは――正面からそれに向き合う度胸さえあれば――それほど難しくはなかった。問題はその先である。フゴフゴ言いながら左右の連打を繰り出してくる大野豚を前に、ミランダはかわし続けるのをやめた。
「ふっ!」
「フゴアッ!」
軸足をわずかに捻り、目の前に迫った拳の甲に添えるように手の平を当てて軌道を逸らせる。一瞬バランスを崩しかけた大野豚は、なんとか踏み止まって抗議するように吼えた。しかしそれも束の間、すぐさま逆の腕で次の攻撃を繰り出してくる。
「ぬっ! ここかあっ!?」
突き出された拳は右。ミランダはその甲に右手を添え、左手で肘の辺りの剛毛を握り締めると、その動きに合わせて己の身体を回すように捻った。つかんだ肘を横に向かって投げ放ち、勢いのままにその場でくるりと回ると黒いスカートの裾もバサリと舞い上がる。きっちり一回りしてスカートが再び脚を覆い隠そうとした時、その右手には抜き放たれた短剣があった。
目の前には焦げ茶色の斜面が広がっている。殴り掛かった腕を引かれて速度を加えられ、よろめくように半回転した大野豚の広い背中だ。ミランダはそこを駆け上がった。頭の毛をつかむと力まかせに後ろへ引く。ゴキリと首の骨の鳴る音がして、大野豚の顔が天を仰いだ。太い首に抱きつくように右手を前に回し、手にした刃を突き立てる。
「ゴブッ!?」
ミランダが逆手に握った短剣を引くと、首の半ばまでがバターのように易々と切り開かれる。大野豚の声は、ヒュオオという喉から漏れる空気の音へと変わった。鮮血が斜め上へと噴き上がり、ミランダはそれを避けるために背中を蹴って跳び退る。
しかし、噴き出た血が何かを濡らすことは無かった。噴き上がったそれは重力に従ってじきに落ち始めたところで無数の光の粒となって散っていく。その光も地面に届く前に儚く消え去り、後には何も残らなかった。
ミランダはふわりと着地すると同時に油断無く構えを取った。だが、大野豚は最早振り返る事無く、そのままゆっくりと前へ倒れていく。ズシンと、その体重を感じさせる地響きと共に石畳に伏した。五つ数えるほどの間を置いて、その身体も端から光の粒に変わり始める。巨大な大野豚が全て消え去るのに、さらに五つ数えるほどの時間を要した。
「ふう」
構えを解いて息を吐き、ミランダは短剣の刃を目の前にかざす。確かな手ごたえがあったはずなのに、そこには血糊も脂も付いておらず、手入れしたときのままの輝きを放っていた。それを確かめた後、パチリと音を立てて鞘に収める。
(少しはマリコ殿に近づけただろうか)
初めてマリコを連れて狩りに出掛けたのは、二月ほど前の事だ。戦っている最中に現れた大野豚に、マリコは一人で立ち向かって難なく倒してしまった。しかもこの上なく手際よく。ミランダはその時の衝撃を忘れていなかった。
野豚は力こそ強いが、それほどの難敵ではない。弓矢で遠くから弱らせて狩るのなら、それこそ多少の鍛錬を積んだだけの、宿で働く娘たちでもなんとかなる。しかし、元気なまま近付かれてしまうと危険度が跳ね上がる。闇雲に振り回されているように見える拳だが、当たればぺちゃんこにされてしまうだけの力が込められていた。
それでも当時のミランダの敵ではなかった。ただし、刀を手にしていればの話であり、斬り付ける回数が増えれば食肉として狩るという意味ではあまりいい結果にはならない。勝てるというだけの事だったとミランダは思う。だからこそ、後ろに回って喉を裂くという、マリコがやって見せた技に魅せられたのだ。
それを難なく実行するためには、どれだけの技量が必要なのか。故にミランダはこの鍛錬システムを女神から授けられて以来、時折大野豚と戦っている。これはマリコという目標に至るための、道標の一つなのだった。
ミランダは、開いたまま脇へ寄せてあったメニューウィンドウへと手を伸ばした。大野豚の分が加算された経験値は今もゆっくりと数字を増やしているが、今はそれはいい。スキルや各ステータスを順に眺めていく。前に見せてもらったマリコのそれにはまだまだ及ばないものの、以前の自分とは比べ物にならないほど伸びている。
(全てはマリコ殿のおかげなのだ)
メニューを始めとした、神々のシステムの事ではない。それは確かに素晴らしいが、余禄のようなものだ。剣に固執し、停滞しつつあったミランダの世界は、マリコと知り合った事で劇的に広がった。料理に熱中し、斧をも振るうなど、以前の自分は想像もしなかっただろう。
変化したのはミランダだけではない。マリコが現れた後、この世界も劇的に変化しているのだ。一番の変化は龍族との邂逅であろうと、ミランダは思っている。そして、そこでマリコが果たした役割も傍で見て知っていた。もしマリコがいない状態で龍族と出会っていたなら、こんなに穏便に話が進んでいなかっただろう。
女神が消えるかも知れないという話は衝撃だったが、ミランダ次第で何とかなる可能性もあるという。代わりは続けて欲しい、今後も頼み事をすると言う女神に、ミランダは一も二も無く頷き返した。マリコのためにもなるというのだから余計である。
「だから、私は私にできる事を行うのみ」
何にせよ、今は鍛錬である。次の対戦相手を選ぼうと、ミランダが手を伸ばしかけた時、後ろで警告音が鳴った。裏側との通路が開くという予告だ。操作を取りやめ、ウィンドウを消して振り返ったミランダの少し先で石畳の一部が赤く光った。そこが開くという印である。
じきに通路が開き、腕を前に伸ばしたマリコが飛び出してくる。女神の話を聞いたからだろう。着地したマリコはいかにも憮然といった顔をしている。自分と同じ話を聞いたのなら当然だろうとミランダは思った。
しかし、最早迷う必要は無い。それが女神とマリコのためになるのなら。ミランダは軽く手を挙げてマリコの方へと近付いていった。
長いこと間が空きまして、申し訳ありません。ようやくです(汗)。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。