467 異変 9
マリコは目を見開いて女神を見つめる。そこへまたカランと氷の音が響いた。止まっていた時が動き出したかのように、二人の視線が下がる。トレイの上にマリコのカップだけが置かれていた。溶けた氷がカップの中で動いた音だったらしい。
「なんじゃ、空いておるではないか」
女神が壜を取り上げ、置かれたままのカップに向けて傾けた。とくとくと、鼓動のような響きと共に琥珀色の命の水が注がれる。ほとんど反射的にカップに手を添えたマリコは、壜が離れていくのと同時にそれを持ち上げた。グイと一気にあおって、ふうと息を吐く。
「相変わらず、いい飲みっぷりじゃの」
次を注いでやろうと壜を掲げて見せる女神に首を横に振った後、マリコはカップを包むように持った両手を膝の上に置いた。視線を落とせば一回り小さくなった氷。再び上げれば、少女の姿をした女神が、猫耳の生えた頭を傾けている。文字通り一息吐いたマリコは、女神のセリフを反芻する。
――わしは風と月の女神などではないのじゃぞ
考えてみれば確かにその通りだった。
女神ハーウェイ。
唯一神にして創造神、全知全能の美しく慈悲深き女神様。ついでに言えば、人々の前に顕現する姿は猫耳少女ではなく巨乳美女。
それが彼のゲームにおける神の設定であり、目の前に胡坐をかいて座る猫耳女神の正体であった。マリコがこの世界で目覚めてから猫耳女神とは何度も顔を合わせているが、本来のハーウェイの姿は一度しか見た事が無い。初めてここへ来た時の事だ。
その時、風と月の女神もやっていると言われて、マリコは深く考える事無くそういうものかと受け止めた。二柱の女神を分けて考えなかったのである。信仰心がどこに向かうかなど、あの時のマリコにそんな事を考える余裕は無かったのだ。
(じゃあ、猫耳の姿を維持できなくなるほど減ってきているっていう力は、ハーウェイ様の力ということ。で、風と月の女神様に向けられた信仰心はハーウェイ様の物にはならない……)
マリコはさらに考えを進める。信仰心が集まって、女神ハーウェイは顕現した。女神の言によれば、その信仰心はゲームにログインしたプレイヤーたちからもたらされたものだ。女神の創った――という設定の――世界を救う、あるいはそこに住む人々を助ける数々のクエストと、それらを積み上げて紡がれるストーリー。
ストーリーを進めずとも一応キャラクターは育てられる。しかし、進めないと手に入らないスキルやアイテムもあるので、ほとんどのプレイヤーは物語を辿ることになる。そしてそれは、例えゲームの中だけの話であったとしても、女神の存在を信じ、受け入れる事無しには進まない。結果として、彼のゲーム世界は何度救われたのだろうか。
信仰心について、実在の宗教には及ばないと女神は言ったが、そんな事はないだろうとマリコは思っている。ハマっていたプレイヤーは大勢居たのだ。「マリコ」がログインすると既に居て、挨拶して落ちる時にもまだ残っていたあのギルメンたちは、一体いつ寝ているのかと思ったものだ。巨乳美女神を崇める「信者」も沢山居た。方向性は疑問だが、その信仰心が実際の宗教に劣るとは、マリコにも思えなかったものである。
しかし、サービス終了となった今では、ログインできる者など居ない。ならば、女神ハーウェイは、最早補給されることの無い力を使い続けているのではないのか。もしも力を使い切るようなことになったらどうなるのか。聞かない訳にはいかなかった。
「この先、どうなるんですか。このままだと、女神様は力尽きるんじゃないんですか」
「ん? それに気付いたか」
マリコが事態を自分なりに消化するのを待っていたのだろう。黙ってカップをチビチビやっていた女神は顔を上げた。その顔には「よくできました」と書いてあるように見える。
「気付いたか、じゃないでしょう!」
「まあ待つのじゃ。無茶な使い方をせねば、そうそう使い切ったりはせぬ。それに、わしに向けられた信仰心とて、完全に途切れた訳ではない。よいか……」
女神は言う。サービス終了によってログインによる信仰心は得られなくなったが、ゲームや女神ハーウェイの信者が全ていなくなった訳ではない。彼らからの信仰心は今でも女神の力となっている、と。
「いや、でもそれは……」
「先細りじゃと言いたいんじゃろ? 分かっておるわ」
マリコが言いよどんだ事を、女神ははっきりと口にした。その上で、腕を組んで唸る。
「せめて、漫画化とかアニメ化とかしておれば、もうちっと違ったんじゃろうがのう。いや、そこまで行くような超人気タイトルじゃったら、そもそもまだサービスが続いておるじゃろうの」
「はあ、まあそうなんでしょうけど……」
また妙に俗な事を言い出した女神に、マリコは少々毒気を抜かれたような気がした。確かに人気のあるゲームは、アニメ化したり劇場版になったりしたのを見た覚えがある。だが、彼のゲームが隆盛を極めていた頃は、まだそういうのは珍しかった。デオキシリボ核酸みたいな名前の出版社からパロディアンソロジー本が出たくらいではなかったか。
マリコも買って読んだが、ゲームあるあるネタやストーリー中に出てくるNPCをネタにしたものが多く、女神は大抵ボケ役を割り振られていたな、と中身を思い出していたところでハッと我に返った。
「いやいや、誤魔化されませんよ。これからの話です!」
「ちっ」
「ちっ、じゃありません!」
猫耳女神が消えるというのはその姿を維持できなくなること、というのは分かった。だが、そこで終わる話ではないのだ。その先どうなるのか。それに対して、マリコはどうすればいいのか。何ができるのか。
「そんなに聞きたいのか」
「当たり前です」
「仕方ないのう」
カップを両手で支えて微妙にあざといポーズを取る女神に、マリコはちょっとイラッとした。
「先に断っておくが、これはあくまで最終的には、という話じゃぞ。そうそうそこまでは行かぬ。まず、力の残量が減れば、この姿を取る事さえできぬようになる。これは言うたの? その先じゃ。わしを知る者がさらに減って、もし力が尽きれば、ハーウェイとしての姿も保てぬことになるじゃろう。概念だけの存在となるのじゃ。そうなるともう、できることはほとんど無いじゃろうの」
「……」
――存在を知られておらぬ神では信仰心も得られぬ故、何かができるとも考えにくいの
マリコは前に女神から聞いた言葉を思い出す。女神はそうなるだろうと言うのだ。あれは予言のつもりだったのだろうか。聞き流していた自分に少し嫌気が差したところで、女神の次の言葉が耳に入った。
「まあ、この期に及んでわしが死ぬ事になったり消滅したりする可能性は低いじゃろうから、このくらいじゃの」
「アンタ、さっき死なないって言っただろうが!!」
マリコはぼふんとベッドに拳を叩き付けた。
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