461 異変 3
思わず声を上げてしまった後、マリコは素早く視線を巡らせた。厨房で朝の仕込みを始める早朝の時間帯だけあって、幸い客席の方には誰も居ない。カウンターの前に立っているブランディーヌだけである。一方、厨房内には人が居た。朝だけ手伝いに来てくれている、近所の奥さんが二人。その二人に向かって、マリコは頭を下げた。
「すみません。じきに戻ってきますから、しばらくの間、よろしくお願いします」
「え、ええ」
「分かりました」
ブランディーヌの言った事はもちろん聞こえていただろう。目を丸くしたままの二人は素直に頷いてくれた。マリコはこちらも呆然としていたミランダの脇腹を肘で突いて再起動させる。
「これは詳しく聞いてみないと」
「あ、ああ……」
「このままだと目立ちますから……」
小声で二、三やりとりをした後、マリコはミランダの手を引いてカウンターの切れ目から食堂側へ出た。
「ブランディーヌさん、ここではなんですから、とりあえずこちらへ」
「う、うむ。とにかくこちらへ」
「え? え!?」
両側から腕を取られてキョロキョロするブランディーヌを廊下の奥へと引っ張っていく。変に噂を広められても困るし、どこから出てきた話なのかも確かめたい。最初はタリアの執務室へ、と思っていたマリコだが、まだタリアが出てきていない時間帯だと気が付いた。そのまま角を曲がってさらに進み、自分の部屋に連れ込むことにする。
「さて、詳しい話を聞かせてください。何ですか、その噂は」
一脚しか無いイスにブランディーヌを座らせ、マリコとミランダはベッドに腰を下ろして早速話を振った。
「何って、さっき言った通りですよ。ミランダさんが風と月の女神様の化身なのではないかっていう話です。さすがに無理がある話だとは思いますけど」
勢い込んで話を持って来た割に、ブランディーヌ自身は噂を本気にはしていないようだった。考えてみれば、ブランディーヌは加護を受ける前のミランダも知っている訳で、化身は言い過ぎだと思っているのだろう。
「その噂、どこから流れて来たんですか」
「ええと、エイブラムさんからメッセージが来て……」
「エイブラムさんから!?」
ブランディーヌにエイブラムからメッセージが来るというのはそれほど意外な事ではない。二人がフレンド登録をしたという話は聞いていた。本当の友人関係なのかどうかはマリコにもよく分からないが、神格研究会の業務の都合で考えれば、メッセージ機能が使えればとても便利だということは分かる。
ただ、エイブラムは現在、龍の国に居るのだ。マリコ自身が連れて行ったので、それは間違い無い。そして龍の国は、東の最前線であるナザールの里からさらに遥か東にある。今のところ「世界の果て」と言っても過言ではない。そんな場所に居るはずのエイブラムから、どうしてミランダの噂話が届くのか。
「そこは私も気になりましたから、エイブラムさんに確かめました。一緒に龍の国へ行ってる、アニマの代表に聞いたそうです。で、その方は本国の同僚からのメッセージで知ったそうで……」
さすがにこの辺りは神々の情報を扱うプロでもあるエイブラムとブランディーヌだった。噂の出所を、追えるところまで追ったらしい。ブランディーヌはそうして聞いた話をまとめて話してくれた。それによると、発端はどうやらヒューマンの国だという。
一週間ほど前、山菜取りに出掛けていた親子が、風と月の女神と思しき誰かに助けられた。山道を歩いていた二人は後ろから声を掛けられて足を止め、そのすぐ後に目の前で岩崩れが起こったのだそうだ。止まっていなければ巻き込まれていただろうから、助けられた事は間違いない。
だが、「思しき」と付くのは、女神の姿が一般に知られているものと少し違っていたからだ。銀の髪で猫耳としっぽまでは同じだが、体格は小柄とは言えず、服装も白一色ではなく白黒だったらしい。これは話を聞きつけた地元の神格研究会メンバーが聞き取りに行って確かめたそうだ。
この話は、神格研究会経由で早々にアニマの国にも伝わった。風と月の女神様の眷属であると自認するかの国の人々は、この女神に関する情報については貪欲なのだ。
ところでアニマの国にはもう一つ、最近もたらされた女神関係の情報があった。最前線であるナザールの里に赴いて、その里長の下で修業をしていたアニマの国長の娘であるミランダが、風と月の女神の加護を得たという話である。同時に女神と同じ銀の髪に変化した事も当然伝わっていた。
――ミランダ姫様は普段、白と黒の服をまとって修業をなさっているそうだ
――ならば、ヒューマンの国に顕現された女神様というのは
――いや、姫様の服ってそれ、メイド服なんじゃあ
――女神様が姫様の姿を借りて顕れられたのか
――そもそも、うちの姫様に女神様が宿っておられる可能性も
――いやだから、何で女神様がメイド服着るの
――女神様、万歳!
――姫様、万歳!
冷静に受け止める者もいないではないが、概ねこういう雰囲気なのだそうだ。この話が龍の国に向かった代表にも伝わったらしい。
(ほとんど妄想なのに、微妙に事実を掠めているところが何とも言えませんね)
半ば呆れたマリコがふと隣りに目を向けると、ミランダはその顔を盛大に引きつらせていた。
「あんまり誇らしげに言うもんだから、エイブラムさんも言ってやったそうですよ」
「へ?」
「『白と黒と言えば、命と太陽の女神様ではないですか。その理屈で言えば、白と黒の姿で日々傷を癒し、命を救い続けるマリコ様は、命と太陽の女神様の化身ということになりそうですな、はっはっは』って」
「何ですか、それは!?」
アメリカンジョークを披露するような口振りで言うブランディーヌに、今度はマリコが顔を引きつらせた。
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