457 戻ったら戻ったで 15
風呂から上がったマリコたち三人は一旦厨房へ戻り、いつものように明朝の準備や最後の後始末を行った。日によっては通いの娘が混ざっていることもあるが、今日は住み込みの三人が揃っているので他の者はいない。シウンにあれこれと教えながらも早々に済ませて宿の奢りで振舞われる仕事上がりの一杯を掲げ、厨房を後にした。
「シウンさん、今日は特にお疲れ様でした」
「早々に寝てしまうのがよろしかろう」
「ああ……。そうさせてもらう。お二方も、おやすみ」
三人の部屋は中庭を挟んで厨房の向かい側に当たる位置に並んでいる。廊下を回りこみ、それぞれの部屋の前に立ったところで挨拶を交わした。仕事の方も忙しかったが、龍関係の話や質問をかなり振られて疲れているのだろう、シウンは既にかなり眠そうである。
マリコとミランダは、一旦それぞれの部屋に入った。二人はこの後、一緒に女神の部屋を訪れる予定ではあるが、シウンはその辺の事情を知らない。単に今から寝ると思っている。そんなシウンの目のある所で二人が連れ立ってどちらかの部屋に入って行っては変に思われるだろう。
三人の部屋は隣り合って並んでいる。廊下側から見て右からミランダ、マリコ、シウンの順である。壁の燭台に灯りを掛けた後、マリコは左側の壁の向こうに意識を向けてシウンの気配を探った。シウンは部屋の真ん中辺りに立ち止まって、何やらゴソゴソと動いている。
(メイド服から寝巻きに着替え……、あー、多分違いますね)
龍の国でコウノとクロの家に泊めてもらった時の事を思い出して、マリコは額に手を当てた。服を着る習慣が身に付いていない二人は寝巻きなど着ていなかった。恐らくシウンも同じだろう。脱ぎっぱなしである。
じきに一度動きを止めたシウンはマリコの部屋側に近付くと、壁の近くでいきなり倒れた。一瞬ギョッとしたマリコの耳にボフッという音がかすかに聞こえ、わずかに振動が伝わってくる。マリコは部屋の作りを思い出して息を吐いた。
隣り合う部屋は左右対称の構造になっており、家具の配置も概ねそれに準じる。マリコの部屋はベッドが左の壁際にあり、シウンの部屋は右だ。つまり、二部屋を隔てる壁のすぐ向こうにシウンのベッドがある。どうやらシウンはベッドに倒れ込んだだけらしい。
「……」
しばらく経ったが、シウンが再び動き出す様子は無い。やはり疲れていたのだろう、早々に眠ってしまったようだ。そこからもう少し待ってから、マリコはミランダの部屋に向かった。
◇
星空に浮かぶ、石でできた四角いステージ。天頂から降り注ぐ月光に照らし出されたそこに二つの人影が現れた。もちろん、マリコとミランダである。
「んっ」
石の床に立ったマリコは眩しさに一瞬目を閉じた。月を直接見てしまった訳ではない。何か別の光が目を刺したのだ。薄く目を開いてみると、光っているのは「屋根」だった。女神が使っている大きなベッドの上に設けられた天蓋が輝いている。と言っても自ら光を発しているのではなく、天蓋に掛かる銀色の布が月光を跳ね返していたのだ。
「あれ、もしかして、今日は本気で寝てるんですか」
その布は普段は白くある程度光を通すので、ベッドの上は寝転がって本を読むのにちょうどいい明るさになる。だが、眠るには少々眩し過ぎるので、女神はそれを銀色に変化させて眠っていた。つまり、天蓋が銀色になっている今、女神は寝落ちではなく自分の意思で眠っているということになる。
二人がベッドに近付いてみると、思った通り女神は眠っているようだった。銀色の天蓋が落とす影の中で、身体に掛けたシーツの上に両手を出し、胸の上で組んでいる。
「どうされる? マリコ殿」
「うーん。起きてはもらうつもりですけど……。先に、持って来た物をあそこで準備してもらえますか? その間に私は一通り見てきますので」
寝落ちしていたのならすぐに起こしてもいいのだが、まともに寝ているようなのでマリコも少々気が引けた。ミランダに流し台を示して、今日のお供え――取り分けておいた野牛料理など――を出す準備を頼むと、自分は数日振りの清めの儀に掛かることにする。
「まずは……、あれ、空ですか」
始めにベッドの近くに置いてあるゴミ箱を覗き込んだが、中には何も入っていなかった。天蓋の柱に括りつけられたロープにも洗濯物は掛かっていない。それではと、壁の奥にある風呂場やトイレに向かうと、そこにも特にゴミは無く、洗濯物が溜め込まれている様子も無かった。
「んん?」
普通に考えれば、女神がきちんと家事をこなしているということになるのだろうが、マリコはどことなく引っ掛かりを覚えた。それが何なのかはっきり分からないまま、とりあえず部屋の方に戻るとミランダが並べた物――主に焼けた肉――の匂いが鼻をくすぐる。すると、ミランダが近付いてきて声を潜めた。
「なあ、マリコ殿。女神様は一体いつから寝ておられるのだろう?」
「え? どうしてですか」
「いや、流しが乾いておってな。置いてある台拭きもそうだった故、しばらく使っておられぬのではないかと思ったのだ」
「流しが乾いて……?」
言われてマリコは、自分の感じた引っ掛かりを思い出す。風呂場の方も、トイレの溜まりの他には濡れた所が無かったのではなかったか。風呂場なら入ってから次までの一日弱で乾いてしまうことも無いとは言えないので、はっきりおかしいと思えなかったのだろう。
しかし、流しの方は普通なら日に何度か使う。合間に水気を拭き取ったりしない限り、乾いてしまう事はそうそう無いように思える。マリコは横たわる女神の方へと振り返った。ベッドの傍に歩み寄ると、女神の胸が穏やかに上下するのを改めて確認する。
「……ふう」
安堵の息を吐き出したマリコは、顔を上げてミランダと頷き合った。一応の準備は整ったことでもある。マリコは眠る女神の肩に手を掛けた。
※マリコの部屋の略図は「267 探検と冒険 10」にあります。
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