454 戻ったら戻ったで 12
ナザールの宿屋は上から見るとロの字型をしており、真ん中は中庭になっている。本来は四方を囲む建物への明かり取りのための中庭だが、それなりの広さがあるのでいろいろな設備も作られていた。厨房用の井戸や作業場、主に下着用に使われている物干し場などである。
マリコは厨房の裏側からこの中庭へ出た。夜に向けて厨房も大忙しになっていたが、こちらの作業場も負けないくらいの騒ぎになっている。エリーの負傷騒ぎというアクシデントはあったものの、今日の野豚狩りは成果だけで言えば大成功なのだ。肉類を扱う食料品店のブレアの下、何人もが集められて複数の大野豚を解体している。
(さすがにこんな近くには居ませんか)
中庭をざっと見渡したマリコは、そこにミランダの姿が無い事を確かめた。ここで解体を手伝うのなら「急用がある」という言い方はしないだろうから、予想通りではある。一緒に目に入った物干し場は空だった。すぐ傍で野豚の解体が始まると臭いが移ってしまうだろうから、先に取り込んだようだ。
「ええと、ブレアさんは、と……。ああ、いましたいました」
皆に混じってナイフを振るっていたブレアを見つけて声を掛ける。先ほど、厨房でのサニアとの話の中で、肉についても龍の国へのお返しというかお土産を持って行くことになり、その手配も頼まれていたのだ。
「それじゃあ、これが終わったら、店から持ってきておくよ。夜には厨房の冷蔵庫に入れておくっていうことでいいかい?」
「十分です。ありがとうございます」
ブレアの店にある在庫とすり合わせて種類と量を決める。明日マリコが持って行く分は、ナザールでそうなったのと同じく、おそらくその日のうちに食べられるだろう。野豚の肉自体は今ここに大量にあるのだが、狩ったばかりで熟成が全くできていないので、解体が終わってもこれを持っていく訳にはいかなかった。
(量だけで言えば、この大野豚丸ごと一頭持って行っても瞬殺でしょうけど)
解体されていくそれを横目に見ながらマリコは思った。龍の姿で食べるのであれば一人当たり野豚一頭でも足りないだろうが、形態変更していても彼らは結構な量の肉を食べるのだ。さすがの狩猟民族である。これで野豚肉が気に入られるようなら、こちらも取引ということになるだろう。酒と違って野豚はナザールが「産地」なので、もしそうなるなら野豚狩りの回数が増える事になりそうだ。
ブレアとの打ち合わせを終えたマリコは、一度自分の部屋に戻ることにした。マリコたち住み込みの者の部屋は中庭を挟んで厨房の向かい側、すぐそこにある。扉の鍵を開けながら隣の――ミランダの――部屋を窺ってみたが、もちろん人が居る気配は無い。
(となると、後は風呂場か洗濯場か……)
宿の外に出ていないなら、居そうな場所は限られる。食堂と厨房、中庭には居なかった。昼を大分回った今の時間帯なら、客室に行く用はあまり無い。洗濯場ならアイロン掛けの最中で、同時に風呂の準備中のはずである。可能性が高いのはここだろう。
部屋に入ったマリコは、とりあえずイスを引いて腰を下ろした。ナザールの門に戻って、その足で駆けずり回っていたので自分自身の片付けが何一つできていないのだ。向こうで使った衣類も、軽く浄化を掛けてあるとは言え、洗濯に出さない訳にはいかない。ふうと一息吐き出して、マリコはアイテムボックスを開いた。
「あー、忘れてました……」
使用済みかつ浄化済み下着類と一緒に仕舞ってあった、一セットの服を引っ張り出す。それは以前サニアに支給された、ショートタイプのメイド服だった。龍たちの治癒取得実験で結構ボロボロになってしまった物だ。
「さっき、ケーラさんとこにも寄ってたっていうのに」
何せ、龍と殴り合いをしたのだ。切れ目、カギ裂き、ほつれだらけである。マリコが持っている裁縫道具だけで直すのは、不可能ではないだろうが少々荷が重いだろう。
「いや、むしろ先にサニアさんに相談ですかねえ」
形としては、一応支給制服である。支給元に報告する方が先かも知れない。一部のパーツが取れてしまったメイド服を目の前に掲げてマリコが考えていると、壁を隔てた隣の部屋に、突如気配が湧いた。マリコはメイド服をベッドに投げ出して廊下に飛び出す。気配が突然湧いて出るなどということができるのは……。
「ミランダさん!?」
扉をノックしつつ、声を掛ける。
「マリコ殿!? ちょ……、しばし待たれよ」
待つ事十数秒。扉が開いて中に招き入れられる。そこにはいつもの姿のミランダが居た。
「ミランダさん、今のは……」
マリコはミランダの気配が急に現れたことについて聞いた。意図的に自分の気配を消すことは、腕が上がってくると割とできるようになるので、ミランダができるとしても不思議ではない。だが、わざわざ自室で気配を消す理由はあまり無いのだ。つまりそれは。
「うん? ああ、女神様の『クエスト』だ」
「こんな時間にですか!?」
猫耳女神に人助けだとクエストを頼まれた時、日常生活に支障の無い範囲で頼むつもりだと言われたように思う。実際、マリコにクエストが来るのは全部夜だった。仕事中に呼ばれて、行けなかったらどうするというのか。しかし、ミランダは事も無げに答える。
「珍しくないぞ? どうしても手が離せない時に来た事は無いし。ただ、ここ数日少々回数が増えていてな」
「ここ数日……、増えていた……?」
マリコは思い出した。龍の国に行っている間、自分には一度もクエストが起きなかったのだ。確かに向こうでは、寝ている時も誰かが傍に居たので、その場から消えるのは難しかっただろう。マリコは猫耳女神が何らかの調整をしてくれているのかと考えていた。しかしそれは、その分ミランダにクエストが回っていたということではないのか。
「うん。それで……。ああっ!」
「どうしたんですか!? まさか、またクエストですか!?」
何かを話そうとしていたミランダが急に頭を抱え、マリコは驚いて聞いた。だが、ミランダはふるふると首を横に振る。
「違う。マリコ殿が門に戻られた時に言いかけた話だ」
マリコは頷いて先を促す。それが気になったからこそ、マリコもミランダを探していたのである。
「相談したかった事が二つある。その内、どうしていいものか見当も付かないものが……」
ミランダはそこで言葉を切った。顔を俯かせ、両手の指を合わせてモジモジする。
「ものが? きっと大丈夫ですから言ってみてください」
気休めにしかならないが、聞いてみないことには判断のしようもない。
「実は……」
「実は?」
「一度だけ、『変神』を忘れて出掛けてしまって」
「なんですって!?」
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