451 戻ったら戻ったで 9
最初に動き出したのは一人の男の子だった。歓声が収まり切る前に母親の膝の上から滑り降りたその子が向かった先は、もちろん運動場である。すぐに何人かの子供たちがそれに続き、その親たちが立ち上がる。それが呼び水となって集まっていた人たちの大部分が動き始めるまでに、ほんの一呼吸ほどの間しか無かった。
初めて目にする本物の龍。遠目にも大きくカッコイイそれをもっと近くで見てみたいという欲求は、単純であるが故に共感もし易かった。駆け出しこそしなかったものの、中央四国の代表者たちやブランディーヌまでもが腰を浮かしている。
何人どころか何十人もが近付いてくるのを前に、強大な龍であるはずのシウンがジリッと後ずさりするのがマリコにも見えた。まずい、と思うと同時に立ち上がる。
「皆さん待って! ストップストップ!」
響き渡るマリコの大声に皆が何事かと足を止めて振り返る。その隙にマリコはダッシュした。皆の前に回りこみ、シウンを背後に庇うように立ちはだかる。
「危険ですから、シウンさんに触ろうとしてはいけません!」
「「「!?」」」
その声に、シウンに近寄ろうとしていた人たちの顔に揃って疑問符が浮かぶ。確かに龍は人と比べて身体も大きく力も強い。しかし、だからと言って危険だと断じてしまうのはおかしいと、皆は思っていた。今の姿が龍であるとしても、中身はこの数日間宿で走り回っていたシウンなのである。少々堅苦しそうな物言いの、初めて見る物事に出会う度に、驚きながらも楽しそうにしていた少女がそんなに危険なものなのか。
「あー、そういう事じゃないんです」
方々から上がる疑問の声に対し、片手を上げてそれを制したマリコは、身体を半分振り向かせて、二階より高い位置にあるシウンの顔を見上げた。自分の前を指しながら言う。
「シウンさん、しっぽをこっちへ」
銀の鱗に包まれた長い尾がマリコの前、集まってきた人たちとの間に降ろされる。マリコが何をするつもりなのかシウンにも分からないらしく、傾げられた龍の首が反対側から覗き込む。マリコは龍の身体で作られた輪の中に立っているような形になった。
「これをよく見ていてください」
いつの間に取り出したものか、掲げてみせるマリコの手には細く短い棒のような物が握られている。それは新品の鉛筆だった。タリアの手伝いをしている時にもらった物だが、今はそれはどうでもいい。
皆の視線が集まるのを待って、マリコは鉛筆の先をシウンの尾にそっと当てた。そのまま、並んで生えた鱗を逆撫でするように滑らせる。シウンは特に何も感じないのか微動だにしない。ショリッと、小気味良い音がした。
「うえっ!」
「うわ……」
マリコがそれをもう一度掲げてみせると、ざわめきが広がった。真新しかったはずの鉛筆の先は、削られるどころか斜めにすっぱりと切り落とされていた。
「この通りです。風を切って飛ぶためなんでしょうけど、龍の鱗は一枚一枚が剃刀みたいに鋭いんです。うっかり触ると、指くらいならポトリといくでしょう。危険だから触るなと言った意味が分かっていただけましたか?」
小首を傾げて重ねて言うマリコに、一同はガクガクと首を縦に振った。さすがに今以上シウンに近寄ろうとする者はいない。理解できずに飛び出しそうな子供は親に捕まえられていた。形態変更の際にシウンが広い運動場に移動したのは、巨大化するには狭いというだけではない理由があったのである。
「背中に乗せてもらうのは無理かあ」
「お尻が薄切り肉になるわよ」
残念そうな声がマリコの耳に届いてくる。物語に出てくる龍騎士のような存在には、やはり皆憧れがあったらしい。
ゲームでのシウン、つまり騎龍には馬と同じような轡と鞍が装備されていたのだが、それはこの世界には反映されていないらしい。そりゃあねえ、とマリコは思った。こちらの龍は中身が人と変わらない。中間形態や人型にもなるのに轡と鞍という訳にはいくまい。倫理的にも絵面的にもアウトだろう。
だが、それとは別に龍に空を飛ばせてもらう方法があるにはある。マリコも既に何度か経験した、中間形態で抱えてもらうというやつだ。シウンがエリーを抱えて飛んだのは何人かが見ているので、そのうちこれを希望する者が出てくるかも知れないが、マリコは自分からは何も言うまいと思っている。絵面的に怪しげになるのはこちらも同じだった。
◇
羽ばたいて見せたり、実際に飛んで見せたりと、しばらく龍がどんなものかをアピールしたシウンを、マリコは何とか連れ出した。今日の内にやる事がまだいろいろとあるのだ。まず向かうのはケーラの服屋である。ツルギに頼まれたのは普通の服数人分だが、それはそれとしてシウンからの希望もあった。
「さっきの形態変更とやらを、着たままできる服だって?」
「言い出したのはシウンさんなんですけど、先々を考えるとそれだけじゃ済まなさそうなんです」
「ああ、なるほどねえ。男女に歳。いろんなパターンが要りそうなんだね」
ケーラも運動場でシウンを見ていたので話は早かった。何故ニュービーキラーのような服が必要だったのかも、今では理解してくれている。マリコも裁縫系のスキルは取っているが、持っている道具が少ないので実際にできる事は限られるし、どこまでそちらに時間を掛けられるか分からない。こちらの専門家に相談しておきたかったのだ。
「翼の出る所は、布の重なる枚数をなるべく少なくしてスリットを入れるとかかねえ。とは言っても……」
思い出しながら考えていたらしいケーラは、今はメイド服姿になっているシウンに目を向ける。
「どこからどういう風に翼が出てくるのか、見せてもらえないかい?」
「ああ、それは構わないが……」
「え、できるんですか!?」
あっさり答えるシウンに、マリコの方が驚いた。聞けば、例の虹色の光を出さずに形態変更することも可能らしい。なら早速見せてもらおうということになったが、店先でやる訳にもいかない。
「なら奥へ行くかね」
以前マリコもあちこち測られた、衣装合わせ用の小部屋である。先にニュービーキラーに着替えておけば、始めから背中が出ているので一々着替えなくても済むだろうと話していると、店の扉がノックされた。顔を出したのはエイブラムである。ここに来る事はタリアに聞いたのだという。
「それでマリコ様、誠に申し訳ないのですが……」
エイブラムが持ってきたのは修復の依頼だった。マリコが留守にしている間に到着した人が、少数ながら居るという。幸い魔力の残りは十分であり、戻ってきてからもそれなりに回復している。明日は誰かを龍の国に送ってとんぼ返りする予定なので、今のうちにできる事はしておいた方がいいだろう。マリコはシウンをケーラに預けて服屋を後にした。
シウンの生変身を見損ねたマリコさん(笑)。
しかし、鉛筆の小ネタなんか、古過ぎて通じる人が居ないような(汗)。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。