437 龍の国滞在記 9
翌朝、コウノに揺すられたマリコはまず、嗅覚から目覚めた。かすかに生臭いような毛皮の匂い。自分のものだけではない甘い女の子の匂い。深酒の後にかいた汗の独特な匂い。そして、それらを押えて食欲を刺激してくる焼けた肉の匂い。朝空腹を感じるのは健康な証拠、などと頭の隅で思い浮かべつつ目を開く。そして、自分が全身で巻きつくようにクロを抱き締めていることに驚き、彼女が人型で何も身に着けていないことに驚き、自分も同じ姿であることに驚いた。
マリコがあわてて離れると、クロは眠っているようだがどこかぐったりしていた。寝ている間中抱き締められていたのならそれも無理はないだろう。こちらもコウノに揺り起こされてしばらくぼんやりしていたが、やがて何事かを思い出したらしく、顔を上げて文句を言った。
「助けてくれないなんてひどいですよ、コウノ」
「あははー。いやー、近付くと巻き込まれそうだったし、クロちゃんは割りと自業自得だしー」
コウノはここがどこかということも含めて、昨夜の出来事を話してくれた。それによると、マリコに擦り寄って柔らかさを堪能していたクロは、程なく逆に絡め取られたらしい。蛇が獲物を捕らえるようだったと言う。どこをどうされているのか、ひいひい言いながらもがいていたクロがやがて静かになり、眠ったままのマリコがクロを解放して今度は自分の方に転がってくるのを見て、これはヤバいと寝床から脱出したのだそうだ。
「いや、何というか、申し訳ない」
何故こうなっているのかはよく分からないものの、自分の寝相についてはミランダなどからしょっちゅう言われていたことでもあり、マリコは素直に頭を下げた。毛皮の上に起き上がったクロは少し赤くなりながら首を横に振る。
「いえ、自業自得だというのはコウノの言う通りですし、気も……ごほんごほん。ただ、死ぬかと思ったのは子供の頃以来でしたけど」
「死ぬかと……」
「まーまー。一応皆よく眠れたってことでー。昨夜の残り物を温めただけですけど、向こうの部屋に朝ごはんの用意できてますからー。行きましょうー」
伸ばされたコウノの手を取って寝床から立ち上がったマリコは、傍らに置かれた机の上にある物に気が付いた。ホワイトブリムから下着に至るまで、昨日自分が身に着けていたはずの衣類が、標本よろしくぴっちりと広げて並べられている。
「げっ」
改めて自分の身体を見下ろすまでもなく、素っ裸であることは分かっていたはずである。にも拘らず、そのままコウノたちと一緒に部屋を出ようとしていたのだ。彼女たちが全く気にした様子を見せなかったことに釣られたのだと気付いて、マリコは愕然とした。
(気を付けていないと、ナチュラルに裸族に鞍替えしてしまいそうです)
コウノに待ったを掛けたマリコは、急いで服を着込むのだった。
◇
肉メインの割りとガッツリな朝食を摂った三人が地上に降りるとツルギが待っていた。イシヅチを含めた、中高年層の何人かと連れ立っている。他の人たちはというと、時折通りすがりに珍しそうな目を向けられる以外は、基本的には普段の生活に戻っているようだった。平日のナザールの里の雰囲気と変わらない。違いはその姿と、飛んで移動している者が多いというところだろうか。
「おはようございます、マリコ様。ご気分はいかがですか。昨夜はその、大分……」
鯨飲していたとまでは言わずに言葉を濁すツルギに、マリコは大丈夫だと頷き返した。いつもの寝相問題はあったものの、酒の影響は残っていない。それなら話がしたいというツルギたちに連れられて、近くの石造りの建物へと入った。龍の姿でも出入りできるサイズのそこは、雨の時や肉類以外の調理をするのに使う、いわば食堂的な役割の建物なのだという。
外から見る分にはナザールの宿――四階建てである――より大きいくらいだったのだが、中に入ってみると二階以上は無い平屋である。龍サイズならそうなるかと一人頷いていたマリコは、一角にある人サイズの大きなテーブルへと案内された。コウノとクロを伴って席に着く。二人の分も席があるということはこれも予定の内なのだろう。全員が座ったところでツルギが口を開いた。
「マリコ様にお聞きしたいのは、今後の事なのです」
転移門が開かれたことで、龍の国には人族がやってくることになる。それに対して準備しておかねばならない事や注意しなければならない事などを聞きたいのだという。
「いや、それはツルギさんがご存知なのでは? 向こうに住んでおられたんでしょう?」
マリコとしては、自分自身がまだこちらに来て約二カ月の初心者だと思っている。もちろん、正直にそう言ってしまう訳にもいかないが、かといってマリコもまだ知らない事は多いだろうし、間違った事を教えてしまっても困るのだ。
「いえ、それなんですが、私が人の街で暮らしていたのはもう何十年も前のことです。それに、二度童のせいで多分忘れている事もあるはずでして……」
ツルギが思い出せる限りの説明はこれまでに一応済ませているのだそうだ。ただ、どうしても変化や抜けがあるのは間違いない。そこを修正あるいは補完してほしいということらしい。とりあえず思いつく事を言ってくれるだけでいいと頼まれる。
「一番にやってくるのは多分、神格研究会の方たちでしょうから、そちらに聞くのが間違いないとは思うんですけど」
マリコの頭にエイブラムの興奮した顔が浮かぶ。もっとも、エイブラムとブランディーヌはナザール担当のはずなので、さすがにこちらと担当を兼ねたりはしないように思える。最低一度は顔を出しそうではあるが、正式な担当は別の者になるだろう。
「ですから、その神格研究会の方を迎えるに当たって、という意味でもあるんです。最初のイメージというのは後に尾を引きます。龍族は常識の通じない野蛮人ばかりだと思われても困りますし、我々の内の誰かが人族をそうとらえても困ります」
「ええと、言いたい事は分かるんですけど、それは『私の言う事やする事は信じる、私は誤解をしない』という前提が要りそうなんですが」
寝坊はするし、しょっちゅう何かやらかしている気はするし、マリコは自分自身をそれほど信じてはいないのだ。
「今さら何をおっしゃいますか。神々の加護を持ち、中間形態のシウンを圧倒できる力を持ち、龍の姿の我らに躊躇なく治療を施される御方が」
「うーわー」
全部間違いではないのだが、改めて並べ立てられるとむず痒いことこの上ない。どこの聖人だ、と思ったところで、既にそんなあだ名を付けられかけていることを思い出して、マリコは頭を抱えた。ただ、こうまで言われて断れる話でもない。
(まずは宿を建てる話から? いえ、出会うところからであれば、最初は「露出注意」からですね)
頭を抱えつつも、マリコは何から話すかを考え始めた。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。