434 龍の国滞在記 6
マリコが風呂場まで戻ってみると、コウノは大きい方の湯船の中にしゃがんでいた。また浸かっているのかと思ったがそうではなかったらしく、じきに掛け声と共に立ち上がる。
「よっこいしょっと」
ザバリと水面に波を立てたコウノは、胸の前に大きな石を抱えていた。それをそのまま、一辺だけ幅が広く作られている湯船の縁にゴトリと置く。
「ああして上げておかないと、お湯を温め直す時に困るんです。まだ入りに来る人がいるでしょうから」
「わあ!」
何をしているのかと思う前に後ろから答えを告げられ、マリコは飛び上がる。振り返るとそこにはクロが立っていた。駆け戻ったマリコの後について来たらしい。そういえば下から沸かせないから焼いた石を放り込むんだと聞きましたねと、マリコはコウノに目を戻す。コウノは次の石を抱え上げていた。
「お爺様と戻って来たコウノが大騒ぎした時にはどれほどのものかと思っていましたが、このお風呂は確かに良い物です。私もお世話になっています。マリコ様がくださったそうで、本当にありがとうございます」
「いえいえ、それほど大した物では」
マリコに頭を下げたクロは、近くの壁に立てかけられてあった二枚の木の板を手に取った。それをマリコが入っていた小さいほうの湯船の上に並べて置いていく。一枚の長さが一メートル、幅がその半分ほどのそれは、どうやら湯船のフタのようだ。改めて見るとコウノが入っている湯船の向こう側の壁にも、もっと長い板が立てかけられている。
「マリコ様は着替えるのだったのでは?」
「あっ、そうでしたそうでした」
フタを並べ終えたクロに言われて、マリコは奥に戻って来た理由を思い出した。涼みに行っていた間にある程度乾いていた身体を手拭いで改めて拭き上げた後、アイテムボックスを開いて中を探り、新しい下着を引っ張り出す。
(他の物はとりあえず浄化で済ませるとして……)
そう考えながら、新たに手に入れたゴムが使われたパンツに足を通していると、ふと視線を感じて顔を上げる。真剣な表情で見入るクロと視線がぶつかった。前かがみで片足を浮かせたまま、マリコは固まる。
「な、何でしょう?」
「誰かが服を着ている様子というものを初めて目にしましたものですので。いえ、私の事はお気になさらず、続けてください」
「は……、いえ。え、えーと……」
恥ずかしいから見ないでくださいと言いかけたマリコだったが、その言葉を途中で飲み込んで考える。シウンやコウノも出会った当初は「人族は服というものを着る」という聞きかじりの知識しか持ち合わせていなかったのではなかったか。
ツルギのように経験を積んだ者も少数ながら居るはずだが、龍の国に戻ってからは中間形態や龍の姿であることが主らしい。他の者に服を着ることを勧めたりもしていないようだ。こちらの人たちの生活様式を考えるなら、それは間違いではない。いや、なかった。
彼らが今後どうするつもりなのかは今のマリコには分からないが、転移門が開通した以上、マリコ以外にも他からやってくる人はいるだろう。ナザールの里での反応を見た限り、むしろ来たがる人は多そうだ。となれば、来る人に全く会わないという訳にはいかないだろう。
改めて考えてみると、龍の姿も中間形態も裸と言えば裸なのである。ただ、人型ではない、鱗がある、といった見た目により、先ほどのコウノのように鱗を引っ込めたりしなければ一見裸には見えない。だが、人型になってしまうとそうも言っていられないだろう。龍族本人たちがよくても、人族の方は絶対気にする。
(今後の事を考えるなら、誰かが教えないとまずいですよね)
全体への周知はツルギ辺りに話して考えてもらうしかないだろうが、とりあえずは目の前のクロである。あの時はカリーネたちも居てくれたとは言え、シウンたちにも同じような話はしたのだ。マリコは腹を括ることにした。穿きかけのパンツから足を抜いてクロに示す。
「これが一番先に身に着ける服で、まとめて『下着』といいます。その中でこれは……」
下着から順に、身に着けていきながらそれぞれの名称や役割を説明していく。マリコのメイド服は着ている者こそ限られるが、形や構成は比較的普通の服の部類に入るだろう。とは言え、はみ出しかけたお肉を押し込んだりするところまで解説付きで見せるのは、さすがのマリコにも少々恥ずかしかった。
◇
再びマリコを抱えたコウノがそっと地表に降り立つと、広場は赤く染め上げられていた。宵闇を打ち払う、炎の赤だ。篝火がいくつも掲げられ、石で組まれたかまどがそこここに作られている。
降下する途中で下を見たマリコは、炎に照らし出される龍はさぞかし大迫力だろうと思っていた。しかし、いざ降りてみるとそんな事は全くなかった。理由は二つ。龍の姿を取っている者が一人もいなかった事と、これでもかと食欲を刺激してくる肉の焼ける匂いだ。
広場は既に、巨大な宴会場と化していた。
マリコは今夜の主賓ではあるが、唯一の主役という訳でもないのだ。二度童から回復した人たちが、あちこちで親族や友人に囲まれて談笑している。彼らがその輪に戻って来られた事こそが祝われるべき出来事なのだと、マリコは目を細めた。
「それにしても……」
「なんでしょー?」
「どうして皆さん、中間形態なんでしょう?」
度々上がる乾杯の声を耳にしながら、マリコは疑問を口にした。
「あ、それはですねー」
「普段自分一人で飲み食いする時ならともかく、皆で集まった時にそれをやると、一瞬でお酒が底を突いて他の皆さんに恨まれることになるからです」
「あー、今言おうと思ってたのにー」
燃費の話は食べ物だけではなく、むしろこちらの方が深刻かも知れない。返事をする間にさっさと答えを並べ立てられてしまったコウノが口を尖らせ、ついでに翼も広げてクロに文句を言う。クロの方は澄まし顔だ。笑っていいものかどうか、マリコが迷っていると、人の波の間を抜けてツルギが近付いてきた。
「ああ、マリコ様。お疲れ様で……」
「あんたが、いや、あなたがマリコ様。うちの婆様が世話になりました」
「うちの爺様もすっかり元気になって」
「もう話もできないと思ってたのに」
「こら! お前ら!」
ツルギは挨拶の言葉を言い終える前に、後から来た男たちに押し退けられた。皆マリコが治療したお年寄りの家族らしい。年も背格好もいろいろだが、彼らには共通点があった。全員が片手にジョッキの柄ではなく胴の方をつかんで掲げ、反対の腕には小型の樽を抱えている。
「「「まずは一杯」」」
(こ、これは……)
差し出されたジョッキ――どれもナザールの宿で使っている大ジョッキサイズ――の一つを受け取ったマリコは、久々に抵抗を意識するのだった。
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