433 龍の国滞在記 5
「大丈夫ですかー、マリコさん」
「……まあ、なんとか」
マリコは洗い場に腰を下ろして体育座りのように足を前に出し、湯船に背中を預けてふうと息を吐いた。お湯に浸かったまま考え事をしていたのだが、結構時間が経っていたようで、のぼせかけたのである。
「ちょっと涼みに行きましょう」
「え? あ!?」
状態異常「湯当たり」に対して状態回復でも掛けようか、などとぼんやり考えていたマリコは、こちらも湯船から出てきたコウノに背中と膝裏に手を入れられ、抗議する間も無くひょいと抱えあげられた。鱗を引っ込めたままのコウノと肌同士が密着するが、バサリと翼を一打ちして浮き上がられると、離れるどころか腕を回してしがみつかないと落ち着かない。
龍のサイズに合わせて掘られた通路は中間形態なら少々浮いても問題無いだけの高さがあり、コウノはマリコを横抱きにしたまま、さして長くもない通路を入口に向かって飛んで行った。外に近付くにつれて温度と湿度が下がっていくのがマリコにも体感できる。
「あ、涼しい」
「でしょう?」
外から吹いてくる風は乾いており、マリコの火照った身体を程よく冷ましてくれる。穴の縁の手前で下ろしてもらう頃にはマリコの気分もかなりマシになっていた。落ち着いて考えてみれば、さすがに状態回復が要るほどではない。コウノに並んで立つと、四角に掘られた入口の向こうに紫がかり始めた空が見えた。陽が沈んだところらしい。
穴の縁に少し近付いて見下ろすと、遥か下にこの「始まりの地」が広がっているのが見えた。石造りの大きめな建物と木造らしい小さめな建物が、山の麓近くに一番多く並んでおり、かなり遠くまで広がる畑の中にも所々に家が建っている。全体の広さで言えば、ナザールの里よりずっと広そうだが、ほとんどの建物同士が間隔を置いて建っているので、あまり街という感じはしなかった。
麓前の広場に見える白い四角は恐らく転移門だろう。その近くに結構な数の人が居るのが見えた。止まっている者も動き回っている者もいる。この高さからだと中間形態の人は豆粒のようにしか見えないが、龍の姿だと何かやってるなあくらいは見て取れそうである。
あれがリュウゼツランの畑であれがお酒を作ってる所でと、コウノが指差して教えてくれるのを聞きながらマリコが下を眺めていると、バサリと羽ばたく音が聞こえた。何と思う間もなく、目の前を何か黒い影が下から上へと通過していく。岩壁の近くを上がってきたらしく、それまで目に入っていなかったらしい。
一旦通り過ぎたそれはもう一度羽音を響かせると、くるりと宙返りしてマリコたちの居る穴へと飛び込んでくる。縁近くに居た二人の頭上を越え、翼を広げてふわりと降り立ったのは中間形態の少女だった。
「ああ、いましたいました。やっぱりここでしたか」
「あれー? クロ? どうしたんですー?」
コウノがてててと歩み寄っていく。クロと呼ばれた少女は、その名の通り黒い龍であるようだった。艶のある髪も背中の翼も身体の各所を覆う鱗も皆黒い。反対に肌は白く、ビキニアーマー姿であることを除けば何となく大和撫子然として見えた。しかし、色の差から印象こそ違うものの、その顔や身体つきはコウノと似通っている。多分前に聞いた五つ子の一人なのだろうとマリコは思った。
「どうしたの、じゃありませんよ。飛び出したまま戻って来ないから呼んできてくれと、お爺様に頼まれたんです。多分ここだろうからって」
「あー。ねー」
「さ、参りましょう。皆さん、お待ちですよ」
「あ、待った待った、待ってくださいー」
一歩踏み出して手を取ろうとしたクロを、コウノは両手を上げて制した。
「お風呂を片付けてこないとー。それに、マリコさんは飛べませんからー、連れて行ってあげないといけませんしー」
さっさと片付けてくると言い残し、コウノは床を蹴って飛び上がった。
「ああ、そうでしたね。人族の方は……」
飛べないんでしたねと言いながら、クロはマリコの方へ振り返った。軽く目を瞠った後、頭を下げる。
「はじめまして。コウノの妹で、クロと申します。この度は祖父ツルギが大変お世話になりまして。お礼の申し上げようもございません」
「いえいえ。こちらこそはじめまして。マリコといいます」
コウノと風呂に来る前の騒ぎの時には見なかった顔なので、マリコも挨拶を返す。互いに顔を上げた後、何故かクロはマリコをまじまじと見つめた。ほうと息を吐き、舌を出して唇を一舐めしてから口を開く。
「マリコ様はシウンお姉さま張りの素晴らしいものをお持ちなのですね」
「え? あっ!」
赤い舌が動くのを見て、中間形態の時でも舌は爬虫類ではなく人のなんだな、などと考えていたマリコは、今の自分の姿にようやく思い至った。湯当たりしかけて涼みに来たままなのである。コウノが一緒だったので全く気にしていなかったのだが、当然首のチョーカー以外何も身に付けていない。
「わっ、私も片付けと、きっ、着替えて参りますのでっ!」
さすがに気まずい。突然あわてて駆け出したマリコに、クロは一人その場に取り残された。
「お爺様の間違いかと思ったのですが、やはり人族の方は服という物を着るものなのですね。隠してしまわれるなんてもったいない」
マリコを見送ったクロのつぶやきは、かすかに流れ出てくる湯気に紛れて宙に消えていった。
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