406 最前線の先から来たりし者 11
ゴトリと重さを感じさせる音を立てて、アイロンが脇に置かれた。シウンはアイロン台から手拭いを取り上げ、両手で広げてしげしげと眺める。
「おお、シワが伸びている。大したものだな」
「ん、貸して」
「ああ」
エリーは受け取った手拭いを半分に折って、そこにもう一度アイロンを当てた。それからさらにもう半分に畳んでアイロンを掛ける。
「きちんと折り目を付けたい時はこうする」
「おお!」
感心したような声を上げるシウンに、エリーはふっと息を吐いてわずかに笑みを浮かべた。その笑みをそのまま、傍らに立つミランダに向ける。
「誰かさんが来た時を思い出す」
「わ、私はアイロンくらいは知っていたぞ!」
「似たようなもの。ミランダは『ほう!』だった」
「うぬぅ」
ナザールの里にやってきた頃のミランダがアイロン掛けを見て、今のシウンと同じ様な反応をしたのだそうだ。その光景がありありと目に浮かび、噴き出しそうになるのをマリコは何とか堪える。大分陽も傾いてもうじき夕方という頃、シウンを連れたマリコたちは洗濯場にやってきていた。
買物がてら宿の周囲を案内して回った一行は昼食時の食堂を手伝い、その後は宿の中を巡っているのだった。里の人数が増えたこともあって、昼過ぎの洗濯場は洗濯とアイロン掛けでフル回転している。そこに突撃すると邪魔になるだけなので、他所を回ってからここへ来たのだった。この時間帯ならアイロンパートの女性陣が引き上げた後のはずである。
実際にやって来てみれば、エリーが一人で後片付けをしながら風呂釜の番をしていた。そのエリーの提案で、釜の火が残っていてちょうどいいから試しにアイロンを使ってみればいいということになったのである。
試す相手は食堂で使っている手拭いだった。普段ならこの手拭いにアイロンは掛けない。数が多いというのもあるが、内向きで使う物なのでちゃんと広げて干して畳めばそれで十分なのである。客からの頼まれ物を練習台にするわけにはいかないのは当然だが、シーツなどの大物をうっかり焦がされても困る。手拭いなら失敗しても大した被害では無い、ということらしい。
マリコは何となく首を傾げた。ここへ来た当初のマリコも洗濯場と風呂場の仕事はこのエリーに教わったのだが、その時とは対応が違うように思える。マリコはその疑問を口に出した。
「エリーさん、私の時は割りといきなり実戦投入されたような気がするんですが」
「ん? ああ。ええと……」
聞かれたエリーはきょとんとした顔をした後、目を閉じて何かを思い出そうとするように、立てた指をくるくる回した。じきに指が止まって目が開く。
「マリコさんはここの道具や手順を知らないだけで、何をすべきかは知っている感じだった。食堂でもそうだったし。ミランダは言葉として知ってるだけだった。で、シウンさんは多分ミランダの方」
「あー、なるほど」
「ぬう」
そう言われてマリコは頷き、ミランダは唸った。思い返してみれば、エリーはマリコが食堂初日にやらかしたから揚げ串焼き事件を見ているのだ。そこから「経験はある」と踏んだのだろう。逆に経験が無いのは少し話してみれば概ね分かることである。ミランダについては国長の娘ということもあって、知識に経験が追い付いていない部分が目立ったのだと思われる。
(この分だとシウンさんも、どこかのお嬢様みたいに思ってもらえそうですね)
計らずも、似たところの多いミランダの存在がカモフラージュになっている。シウンが自分からバラしたりしない限り、そうそう正体が知れて騒ぎになることは無さそうだとマリコは密かに胸を撫で下ろした。
◇
星が輝く宇宙に浮かぶ、石でできた四角いステージ。そこには壁が立ち上がり、天蓋つきのベッドや流しなどが置かれているせいで荘厳さには欠けている。しかし、ここは紛う事無き女神の御座所なのだった。
その夜、二晩続けて舞い降りてきたクエストをこなして女神の部屋に現れたマリコが見たものは、ベッドにうつ伏せに横たわって、本を片手にふらふらと左右に揺れている猫耳女神の姿だった。しっぽが元気無く横に流れているところを見ると、どうやら寝落ちしかけのようである。
視線を巡らせたところ、幸いな事に部屋は散らかっていない。マリコは大股でベッドに歩み寄ると女神の肩に手を置いた。
「フギャアッ!」
「わっ!」
女神が悲鳴を上げて飛び上がり、マリコはその驚き様に驚いて飛び下がった。ベッドに目をやると、しっぽを盛大に膨らませた女神が上掛けを抱きしめてハアハアと荒い息を吐いている。しかし、じきに目の前に居るのがマリコだと気付いたらしく、大きくふうと息を吐き出した。
「お、驚かすでないわ!」
「驚いたのはこっちですよ。何読んでたんですか」
「ああ、これ……。む、どこへ行った?」
女神は本を持っていた方の手を上げ、そこに何も持っていないことに気が付いてキョロキョロと辺りを見回した。釣られたマリコが一緒に目を動かすと、ベッドの向こう側に本が落ちているのが見える。飛び上がった時にぶん投げてしまったのだろう。マリコはベッドを回り込んでそれを拾った。
表紙には「振り向けば君」とある。恋愛物のようなタイトルだが著者はブランディーヌではなく、初めて見る名前だった。手渡そうとすると、女神はそれを押し留めた。
「中を見てみるがよい」
マリコはそれをパラパラとめくった。
主人公は誰かに見られているような気がして後ろを振り返る。しかし、その誰かはサッと隠れてしまう。分かったのは黒っぽかったこととそのシルエットから女の子らしいということだけ。その後も主人公は度々振り返るがそれ以上の事は分からない。ただ、段々と近付いてきていることは分かる。
やがてすぐ後ろまで迫られた主人公は、遂に女の子の姿をとらえる。美しい女の子は、可愛らしい笑みを浮かべて「見つかっちゃったー」と言い、主人公の命をさっと吸い取って去っていく。女の子は死神――つまり命の女神――だったのだ。
以下、同じような骨子の話が続いているようだった。
「ホラーじゃないですか!」
マリコは思わずそれを女神に投げつけた。後ろを振り返りたい衝動に駆られるが、ここは女神の部屋である。部屋の中まで近付いているのでなければ、宇宙空間の闇に紛れて居るかどうかさえ分からないだろう。そう考えたところで何か馬鹿らしくなって振り向くのをやめた。同時に女神が驚いた理由にも察しがついた。
「怖かったんですね」
「わしを誰じゃと思うておる! ちょっとびっくりしただけじゃ!」
「まあ、そうですよね」
猫耳女神の正体を考えれば、死神だろうとお化けだろうと、元々は自分が創ったものということになる。
「……ただ、まあ、の。今は身体があって、これは自分が直接創った話ではないからの」
「そうだと怖いんですか?」
「飲み食いして美味いと感じられるのと一緒じゃ! でないとつまらんじゃろうが」
「なるほどー」
全知でも使っていれば怖いものなど無いだろうが、そうでなければちゃんと恐怖も感じるものらしい。マリコには何となく女神がやっていることが可愛らしく見えてきた。
「その生温かい目付きをやめい! それともおぬしも怖いのを味わいたいか。なら、今夜、おぬしの寝ておるベッドの下から青白い手が……」
「ちょ! やめてくださいよ!」
マリコは慌てて止めた。女神がやると言ったら、本当にできてしまうのだ。シャレにならない。そもそもマリコ自身ホラーはそこまで得意ではなかった。
「ふう。まあよい。それより、おぬしの用はなんじゃ?」
「あ」
マリコやようやく、本来の目的を思い出した。
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