396 最前線の先から来たりし者 1
夏の足音が近付いてくるこの時期、高々十日ほどの間に木々の緑が随分と濃さを増したようにマリコには思えた。昨日降った雨のせいで湿度は高く、森の匂いも凝縮されたように鼻の奥を刺激する。落ち葉が雨で柔らかくなって所々滑る足元に気を配りながら、一行はゆるゆると山を降りていった。さらに二日が過ぎており、木々が途切れる所まで坂を下ればそこはもう放牧場の端である。
普段バルトたちが通ることで木々の間を縫うように付けられた、獣道のような小道をしばらく進むと、前の方が明るく見え始めた。陽光の大部分が木の葉に遮られて薄暗い森の中から見ると、放牧場は地面そのものが明るい緑色に輝いているかのようだ。やがて一行は放牧場と森とを隔てる柵の前まで辿り着いた。この辺りには出入口など作られていないので、柵を乗り越えて中に入る。
「あー、帰ってきたあ!」
身軽に柵から飛び降りたミカエラが、両腕を上げて伸びをする。見れば、バルト組の他のメンバーも似たような雰囲気を発していた。
放牧場は単純に広い平地というわけではない。山の斜面のなだらかな部分を利用して作られているので、崖を回り込むような部分もあり、全体としては細長く湾曲している。そのため、ナザールの里そのものは山の陰になっていてまだここからは見えない。それでもバルトたちはここまで来れば「帰ってきた」と感じるようである。こちら側に初めて遠出したマリコには、その感覚は流石にまだ分からなかった。
木陰を作るためにわざと残された木の下に牛が座り込んでいるのを遠目に見ながら緑の絨毯の上を進んで行くと、ワンと鳴き声がした。同時に山陰から犬が走り出てくる。真っ黒い毛足も顔も長い大型犬だった。
「ゲナー」
「お出迎えだね」
サンドラがぽつりと言い、トルステンが応えた。放牧場で飼われている、コリーそっくりな三頭の内の一頭である。トルステンの言い方からするといつものことのようだ。
しかし、そのまま駆け寄って来るかに見えたゲナーは一行の少し手前でその脚をピタリと止めた。どこか訝しげな様子でこちらを見ていたかと思うと、キャウッと変な声を上げる。ピンと立っていた耳が伏せられ、勢い良く振られていたしっぽがだらんと下がった。マリコたちの方を向いたままゆっくりと数歩下がると、そこで回れ右して脱兎の如く坂の下へと駆け戻っていった。
「何、今の?」
「分かんない」
ミカエラとサンドラが顔を見合わせて首をひねる。
「何かを怖がってた感じじゃなかったか?」
バルトはそう言って後ろを振り返った。何かがついて来たのではないかと思ったのだ。しかし、見えるのは森の木々ばかりで、特に犬が恐れそうなものもいない。バルトは仲間たちの方へ視線を戻した。大男が一人に、メイド服が六人。
「あ」
そこでやっと気が付いた。忘れていたわけではなかったが、この数日でその存在にすっかり慣れてしまっていたのだ。
「シウンさんか」
「「「ああ」」」
バルトの言葉に皆一斉に頷いた。シウン本人だけが「なんだ?」という顔をしている。ゲナーは一行に紛れた龍に気が付いたに違いなかった。ともあれ、ここで止まっていても仕方がない。一同は再び放牧場を下り始めた。
するとじきに、今度は「あれっ!?」という人の声が聞こえた。そちらに目を向けると、崖下の岩陰から人の顔が覗いている。やってくるのがバルトたちだと分かったらしく、岩の後ろから出てきた。その手には剣が握られている。それを腰の鞘に戻しながら近付いてきた。ジーンズ風のズボンとシャツに青い髪。
「カミルさん」
「バルト君たちだったのか。いや、ゲナーがえらい勢いで逃げて帰ってきたから、何が来たのかと思ったよ。……君たちだけ、なんだろう?」
カミルはそう言ってバルトたちの後ろ、山の方へと目を向ける。つい先ほどの自分と同じ事をしている姿に、バルトは少しおかしくなった。
「ええ、我々だけですよ。ただいま戻りました」
「ああ、おかえり。皆無事そうで何より……」
バルトたちに向き直って言いかけたカミルの言葉があれっと途中で止まった。その視線の先にはシウンの姿がある。
「君は……」
「「ちょっ、待った待った」」
何か言いかけるカミルをバルトとマリコが割り込むように押し留める。思わず同じ行動を取った二人は一瞬顔を見合わせたものの、マリコの方が何も言わずに下がった。リーダーに任せることにしたのである。
「彼女はシウンさんと言いまして、途中で出会ってそこから協力してくれているんです」
「ほう、協力者! それはそれは……って、途中……?」
「あー、それも含めて報告しますから! とにかく、タリアさんのところに行きましょう!」
ナザールの里は最前線である。ここから東には人は住んでいないはずなのだ。バルトは首をひねり始めたカミルの肩に手を掛けると、強引に回れ右させる。
「いや、折角美人に会ったんだから、ちゃんと挨拶を……」
「それも後でいいですから!」
バルトは強引にその背中を押した。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。
※「誤字報告機能」というものが実装されております。誤字を見つけたページの下部右側の「誤字報告」から行けます。ご指摘の際はご利用ください。




