040 厨房の攻防 7
ひと口大よりやや大きめに切られた鶏肉が大きなボウルの中に漬け込まれ、後は片栗粉をまぶして揚げられるのを待つばかりになっていた。味付けは三種、醤油味、チーズ味、ピリカラ赤唐辛子味である。
「本当に申し訳ありません」
「きちんと伝えてなかったのは私なんだし、そんなに謝るんじゃないよ。考えてみれば、定食に付けるんならむしろこっちの方が取り分け易くていいだろうさ」
「そうよ。定食のおかずなんだから、絶対にこれって決まってるわけでもないし、大丈夫よ」
謝るマリコをタリアとサニアは笑って許してくれた。
(塩、コショウや砂糖はともかく、醤油や味噌、しょうがまであったんだもの。から揚げがいろいろ作れるなって思い込んじゃったんだよ)
今日の昼定食の当初の予定が「チキンカツ」であったことをマリコが知ったのは、胸肉とモモ肉の全てを切り分け、漬けダレに漬け始めた時だった。そこまで行ってしまってからチキンカツに戻すのは――ひと口カツにでもしない限り――難しい。
「それに、この娘達の反応を見てると、これで正解なんだと思うわよ。カツはしまってある肉で夜に出してもいいんだしね」
試しに揚げたから揚げを分け合って試食している三人を示してサニアが言い足した。
「うむ、やはり私のにらんだとおり、マリコ殿は素晴らしい料理人だ。特にこのにんにくとしょうがの効いた醤油味のから揚げの香り高いこと」
ミランダが絶賛する。
「私はこのチーズ味のがいいな。こんな味のから揚げ、初めて」
アリアが顔をほころばせる。
「このちょっと辛い赤いやつは危険だと思います。今日のお昼はビールがいつもの倍出ると覚悟しておくべきです。ついでに言わせてもらいますと、エリーさんに食べさせても「酒をくれ」って絶対言うと思います」
鮮やかな青緑色のツインテールに結った髪と同じ色の瞳と先のとがった耳を持つ、可愛らしい感じの少女が言う。普通のブラウスとスカートの上にエプロンを着けた彼女はジュリアといい、通いでウェイトレスをやっていると言っていた。背はミランダよりやや低いくらいでほっそりしているが、胸はミランダよりやや大きい。先ほどまでは客席の方の掃除をしていたのだが、試作品が揚がったので厨房に呼ばれてきたのだった。ジュリアの話に出てきたエリーというのも通いの娘で、こちらは今は裏で洗濯をしているはずだった。
(やれやれ、味付けはともかく、から揚げはここでも普通にあるみたいで良かった。マヨネーズも要る時には作るってサニアさんが言ってたし、本当に日本にあった物は大抵あるなあ。むしろ、無い物を探した方が早いのかもしれないな)
やがて、付け合せやスープの準備も整い、様子を見ながらから揚げを順次揚げていくだけとなった。揚げ物はなるべく作り置きではなく熱々のものを提供するためである。フォロー要員だったタリアは割烹着を脱いで執務室へと戻っていき、アリアはから揚げがおかずのお弁当を籠に詰めて放牧場へと向かった。弟のハザールも今日はカミルと一緒なのだそうだ。
(そういえば、結局タリアさん一家の全員とはまだ会えてないな)
マリコがそんなことをのんびりと考えていられたのも、今日の定食が出始めるまでだった。ビールとから揚げの注文が相次ぎ、給仕に出ていたジュリアとミランダが走り回ることになったのはジュリアが予想したとおりだったが、途中から次々と新たな客がやってきたのだ。
(命の日に来るのは大抵いつもの顔ぶれで、そんなに多くないってサニアさんが言ってたのにどうしたんだろう)
マリコはひたすらから揚げを揚げ続けた。
◇
実のところ、新たな客を呼んだのはから揚げの味だけではなかった。
まず、何気なくいつものように今日の定食を口にした人々に衝撃が走った。
「今日のから揚げ、いつもよりうまくない?」
「初めて食べる味付けだけど、すごくおいしい!」
「ビール! ビールをくれ!」
「から揚げだけ追加って頼める?」
宿の料理は基本的にいつもおいしい。一つしかない食堂だからといって手を抜くようなことはタリアが許さない。門の番人としての沽券にも係わるからだ。しかし、今日のはまた特別だ。追加を頼んだ者はいつできあがるかと、ジョッキ片手にカウンターの奥の厨房をうかがった。そして、何人かが誰が料理しているのかに気が付いた。
「あれ、昨日来た娘だよな」
「料理もうまいんだ」
「おい、お前、今来てない若い衆に教えに行ってやれよ」
「いやだよ。俺、今追加頼んだとこなのに」
「黙ってたら後で恨まれると思わんか?」
「そう思うんなら自分で行けよ。俺はから揚げ待ってるの」
「それは俺が責任を持って片付けておいてやる」
「そんなことをしてみろ。俺がお前を恨んでやる」
「ちっ、しゃあねえな。ちょっと行ってくるから、俺の分も追加頼んでおいてくれ」
新たな客を呼んだのはから揚げの味だけではなかった。
◇
じきにマリコは悲鳴を上げることになった。
「サニアさん、注文止めてください。仕込んだ分が尽きます!」
売り切れを宣告され、食べ損ねた――主に若い――人々は抗議の声を上げた。夕食の時にもから揚げを出すとサニアが宣言するまで騒ぎは収まらなかった。そしてその日、ついにチキンカツが揚げられることはなかったのである。
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