354 待つ日々 1
マリコが女神から女神の代行などという新たな役割を与えられてから三日経った。危機察知の対象リストにバルトたちを登録したものの、今のところ何かの通知が来ることもない。
本人たちやタリアからマリコが聞いた話によると、彼らはこれまでナザールの里の東側の領域を一回に大体一週間掛けて見回っていた。それも一度に全域を回るわけではない。その話からすると、今回は東へ進むことを優先しているにしても、まだこれまで未到達だった領域に入ったかどうかというところだろう。
だとすれば危険度が上がるのはこれからということになる。既知の範囲内であれば――またボスに率いられたオオカミの群れに出くわしたりしない限り――バルトたちが窮地に陥ることはそうそう無いようにマリコには思えた。
(バルトさん一人ならともかく、組の皆がいますからね)
そんなことを考えながら、仕上がった遅めの昼食の皿をカウンターへ回したところでサニアから声が掛かった。
「マリコさん、今日はもう厨房はいいわよ。ありがとう」
「はい。それじゃあ一回りして上がります。お先に」
「はい、お疲れ様」
一緒にいた厨房のメンバーに引継ぎをして、マリコは裏側ではなくカウンターの切れ目から食堂側へと出た。少し前までほとんどの席が埋まっていた食堂は、ピークを過ぎて今は空席が目立つ。とは言っても今日は人が途切れることはないだろう。
宿の戸口を抜けると、外壁との間には臨時に設けられたテラス席が並んでいる。こちらは食堂の中より人が多いようだ。飲み物片手に一休みしている人がほとんどだが、中には皿を持ち出してきて食事をしている者もいる。
マリコはこれも臨時に作られている販売所――といってもビール樽を始めとした飲み物が置かれているだけだが――に歩み寄った。汗で背中の色が変わった男性にジョッキを手渡したジュリアが、マリコに気付いてこちらを向く。本人も汗をかいているのか、青緑色のツインテールが少しだけ重そうに揺れた。
「ああ、マリコさん」
「上がるとこなんですけど、何か足りないものは?」
「洗い物はさっきフローラが持って行ったんで大丈夫です。帰りに代わりも持ってくるでしょうし」
臨時販売所はテーブルに飲み物を並べて出すだけなので、ここでは空になった容器などの洗い物はできない。本来なら厨房行きになるのだが、そちらも食堂が忙しいせいで何かと詰まっている。そのため、中庭の作業場がこれまた臨時の洗い場になっていた。出てきたマリコに途中でフローラを見た覚えがないので、恐らく直接中庭に向かったのだろう。
「怪我した人も今のところはいないみたいです」
「それは良かったです」
「田植えもまだ始まったとこですからねえ。今から怪我人続出じゃ困りますよね」
ジュリアはそう言って肩をすくめて見せた。彼女の言った通り、田植えが始まったのである。先月の麦刈りと同じ様に、数軒で組んで順番にやっている。水を張って泥をならした田んぼの上に筒状のはしごのような道具を転がしてマス目状の跡を付け、その交点に苗を植えていくのだ。刈り入れと違って刃物の出番があまりない分、切り傷を負う者は少ないのだが、それでもなかなか怪我人ゼロということにはならない。
怪我人が出れば治癒要員たるマリコにお呼びが掛かる、はずだったのだが、これも麦刈りの時と比べて頻度は下がる予定である。というのも、神格研究会を通じてやってきた人たちの中に治癒の使い手が二人ほど混ざっていたからだった。軽い怪我は彼らに任せてマリコは修復などの大物に備えてほしいということのようである。
ジュリアと分かれたマリコはテーブルの間を抜けて宿の建物の南側へ回りこんだ。途中で横目に見た敷地の南東にある運動場にはさすがに今は誰もいない。南側に広がる宿の田んぼも昨日田植えを終えているので、水面にきれいに並んだ苗が風に揺れているばかりである。
やがて建物の西側へ近付くと、その向こうに浴場の建物が見えてきた。その南側には木の柱が立ち並び、その間に張り巡らされたロープに干された洗濯物がはためいている。マリコは風呂場の裏口、つまり洗濯場の入口へと足を向けた。開いたままの引き戸をくぐるとそれでも中は外より明らかに暑い。エリーやパートの女性陣がアイロン掛けや仕分けの真っ最中だった。アイロンの熱源が風呂釜やストーブなので暑くなるのも当然である。
「あれ? ミランダさんは?」
「交代が来たから出て行った。ついさっき」
「ありゃ。また入れ違いですか」
浴場の正面、つまり風呂場側の入口は渡り廊下で宿と繋がっている。ここを出たミランダはそちらに行ったのだろう。特に約束をしてあったわけではないのでそれ自体は仕方がないが、このところミランダと行き違いになることが多いような気がするなとマリコは思った。
「戻りますか」
ざっと見回った結果、マリコが戻ってするほどのことはなさそうである。マリコはミランダの後を追うように裏口から宿へと戻った。こちらから入れば自分の部屋はすぐ近くである。
自室の前まで来たところで、マリコは隣の部屋の扉に目を向けた。そこはミランダの部屋である。しかし、中に誰か居るような気配は感じられない。どこへ行ったんだろうと思いながら自分の部屋の扉を開けたところで、ポーンという聞き覚えのある音がしてウィンドウが開く。マリコは急いで部屋の中に飛び込むと、扉を閉めて一応鍵を掛けた。
――間もなく、下記の事象が現出します。現場に向かいますか?
その文言は前回と同じ。しかし当然内容は違っている。それがバルトたちの危機を報せるものでなかったことにやや安堵しながら、マリコは襟元のブローチに手をやった。幸い、今ならしばらくいなくなっても誰も不審に思わないだろう。
「いや、待った待った。危ない危ない」
マリコは手を離すと窓に近付き、障子の外側にある鎧戸を下ろした。まだ日は高くそこまで目立つとは思えないが、今からマリコはキラキラ輝いてしまうのである。誰かに気付かれないとも限らない。続いて念のために、室内には防音を張り巡らせた。マリコ以外には聞こえないかもしれないが、今から盛大にBGMが流れてしまうのである。
そこまでやって、再びブローチに手を当てようとしたマリコははたと気付いた。光を防ぎ、音を遮り、自分だけしかいない空間で繰り広げられる、誰にも見られてはいけない変身シーンというものの、その凄まじい違和感に。
「この変神シークエンス、恥ずかしいどころかデメリットしかないじゃないですか!?」
正体秘匿型変身ヒーローの変身シーンの意義とは……(汗)。
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