337 眠れる空の女神 1
マリコは伸ばした手を女神の肩に置いた。白い布をサリーかトーガのようにまとった女神の腕は付け根近くまでむき出しで、そこに触れたマリコの手に確かな温もりを伝えてくる。眠っているせいかわずかにひんやりしているように感じるが、異常だと思えるほどではない。いつの間にか止めていた息を大きく吸い込んだマリコは、その肩を軽く揺すった。
「女神様?」
動きが伝わった頭と一緒にそこから飛び出している猫耳が揺れ、長い銀の髪がわずかに波打つ。しかし、同じく銀のまつげに縁取られた目は閉じられたままだった。マリコはもう一度、さっきより少しだけ強目に揺する。
「女神様!?」
グラグラと頭が揺れ、今度はまつげがピクリと震える。まぶたがわずかに持ち上がり、濡れた金の瞳がはね返す光で輝きが漏れ出したように見えた。細まったままのその金の輝きがゆっくりと巡らされてマリコに向けられる。
「ん……、おぬしか……」
「め、女神様! 目が覚めたんですか!?」
「目が覚めたかじゃと? ん、ふああ」
女神は半眼のままベッドの上で起き上がると両腕を上げて大きく伸びをした。下ろした手で目を擦る様は正に寝起きである。首を左右に曲げてパキパキ言わせてから、女神はマリコに顔を向けた。
「ほれ、見ての通り……っと、おぬし、何を泣いておるのじゃ」
「え?」
言われてマリコが目に手を当てると、流れてこそいないものの、そこには涙が溜まっていた。
「こ、これは、だって。もし目を覚まさなかったらって……」
揺すっても最早目を覚まさない者を何度見送ったか。そこまでは口にせず、マリコは溜まったものを拭い取ると女神にじとりとした目を向けた。
「一体いつから寝てたんですか!?」
「ん? ちょっと待て。……ああ、今は……。ふむ、昨夜からじゃの。丸一日と少々、寝ていたことになるかの」
現在の時刻を確認したらしい女神は事も無げに答える。マリコの眉が急角度になっていくのを見て女神は片手を上げた。
「待て待て。おぬしは忘れておらんか? わしは何じゃ?」
「何って、女神様じゃないですか」
何を当たり前のことをと、眉の角度こそ下がったものの、マリコは不審そうな声を出した。
「ふむ、その通りじゃ。ではついでに思い出してみるがいい。今はこうしておぬしと話をしておるが、本来のわしの相手は誰、いや何じゃ?」
「何って……」
「おまけにもう一つヒントをやろう。転移門をいじった時に、ここへ初めて来た時に、おぬしはそれぞれ何を見た?」
「え、転移門とここ?」
いきなり関係無さそうな話が出て、マリコは首を傾げた。転移門で見たものはまだ分かる。未だに全てが描かれている訳ではなさそうな、転移門が点在する地図である。では、ここへ初めて来た時に見たものとは。マリコはぐるりと周囲を見回した。
(女神様の相手や転移門が関係するんですから、ベッドとか流しとかではないでしょうし……)
それらしいものを見つけられなかったマリコは上に目を向けた。今は銀色になっている天蓋のおかげでベッドの上はまぶしくないが、その向こうには月が輝いているはずである。そして、その反対側、今居る部屋の真下にあったものと言えば。ここまで考えたところで、マリコは閃いた。
「時差ですか!?」
「ほう!」
女神が感心したような声を上げる。マリコにしてみれば、どうして今まで気付かなかったのかということである。
この部屋に来て見たものの一つ。それはここの真下に浮かんでいる青く丸い惑星だった。その形と転移門が配された地図を合わせて考えてみれば明らかである。地上の全てが同じ時刻ではないのだ。ある地域が昼である時、夜である場所も必ずある。
そして、女神の本来の相手とは、世界全てなのだ。実際には女神ハーウェイが創ったのかも知れないが、神話においては七柱の神々が世界を創り、その中でも興味深い地球を見守っているということになっている。マリコの目の前で座っている女神は、面白そうならどこにでも現れるのだ。
「どうやら分かったようじゃの」
「はい」
「このところ、おぬしの時間帯に合わせておったのじゃが、ずっとそうしているわけにもいかんということじゃ。今人が住む場所は限られているといっても、それでも十分広いからの」
「よそへ行っていて、睡眠時間がずれてたってことですね」
「そういうことじゃの」
「でも……」
全ての疑問が晴れたわけではないのだ。
「まだ何かあるのかの」
「なんだって丸一日以上寝てたんですか」
「ああ、そのことかの。それはじゃな……」
「それは?」
「寝溜めじゃ!」
「は?」
妙にタメを作って言い放たれた女神の言葉に、マリコは思わず間抜けな声を出した。
「もう少しまともに言うとじゃな。今のおぬしらにとっての、魔力の回復や節約のためじゃ。考えてもみい、地域に時差があるのとは別に、面白い事が間を置いて順に起きるわけではないのじゃぞ?」
「それはそうでしょうけど」
「続けざまにあちこちで事件が起きた時なんぞは、数日出ずっぱりなどということもあるのじゃぞ。その分休まんともたんじゃろうが」
魔力については、きちんと休んだ方が回復も早いということをマリコは知っている。それにしても、何だかすごくブラックな企業の話を聞いているような気がするなと思った後、休める分マシなのだろうかともマリコには思えた。
「何だか身体に悪そうですねえ」
「何、実体を持って活動するためのこの身体じゃが、普通の人などよりはずっと頑丈にできておる。それに、そんなことはまず無いじゃろうが、もし事故か何かでこの身体が消滅するようなことになったとしても、わしの本体まで消えてしまうわけではないからの」
本体というのは女神ハーウェイ、あの巨乳女神様のことだろうなとマリコには思えた。確かに唯一神が本当に死ぬとは思えない。それなら大分マシのように感じられた。
「さて、ではマリコよ。一つ頼まれてくれぬか」
「何でしょう?」
新たな神託かと身構えたマリコに、女神は言う。
「丸一日寝ておったせいか、少々腹が減った。何か作ってくれんかの」
道具はあそこ材料はこれと出してくる女神に、マリコはガクリと力が抜けた。ただ、そのくらいなら大した事ではない。女神の希望を聞いて流しの方へと向かった。
「さて、できるまでもう一眠りしようかの。もうしばらくはもたせんといかんからの」
再びベッドに潜り込む女神の言葉は、マリコの耳までは届かなかった。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。




