034 厨房の攻防 1
途中、曲がり角の所にあったお手洗いで――さすがに二度目なので戸惑うことなく――用を足し、ついでに顔を洗った桶の水を流して、マリコは厨房の扉の前まで来た。扉は例によって上半分が障子になっている。
「失礼いたします」
ノックをして声を掛けると、早々に扉が開いて、タリアが顔を出した。
「あ、タリアさん。おはようございます」
今日のタリアはエプロンというか、割烹着にしか見えない物を着ている。見えている足元がパンツルックなので、昨日のような格好の上に着ているのだろう。
「おや、来たね。おはよう。起きたってのは聞いたけど、身体の方は大丈夫かい?」
「はい、多分。昨日は、その、いろいろと、お手数をお掛けいたしまして……」
マリコは昨日のあれこれを思い出して、しどろもどろに答えた。
「若いもんがいちいちそんなこと気にするんじゃないよ。生きてりゃいろいろあるもんさね」
「すみ……いえ、ありがとうございます」
謝罪の言葉を言いかけたマリコは、思い返して礼を述べた。
「さて、ここに来たってことは、うちで働くってことでいいのかい?」
「……はい」
問われて、一瞬考えた後、マリコは腹を括って答えた。タリアは少し眉を動かすと、面白そうな表情を浮かべた。
「それじゃあ今から、少なくとも仕事中は私のことは「女将」って呼ぶこと。私ももう「さん」は付けないよ。いいかい、マリコ」
「はい、分かりました。女将さん」
「ん。ちゃんと給金は払うんだから、いろいろこき使わせてもらうよ」
タリアは頷いてニッと笑った。マリコはその顔を見て、また少し祖母を思い出した。
(ああ、なんかこの人には、この先もずっと敵わないような気がするよな)
「はい、よろしくお願いします」
「さて、とにかく入った入った。分からないことがあったら聞いとくれ」
マリコはタリアに促されて厨房に入った。ここは、昨日マリコ達が昼食を摂った食堂のカウンターの裏側に当たる場所である。厨房はそこそこ広く、サニア、アリア、ミランダの姿が見えた。壁側にはいくつか窓もあるが、魔法の明かりも灯っている。
(調理台、食器棚、かまど、流し、包丁にまな板、鍋とフライパン。うん、基本は同じだな。あのいくつか並んでるロッカーみたいな大きな箱は何だろう?)
室内をざっと見渡し、マリコは自分の「常識」と照らし合わせた。ここが日本でない以上、自身の経験や知識がどこまで通用するのかが不安要素である。しかし、実際に見た厨房の様子は、少々時代を遡るもののほとんどがマリコの知識の内にあるものだった。
調理台では、サニアがアリアに教えながら、キャベツらしき野菜を切っている。その前ではミランダが包丁を手に、鶏にしか見えない鳥の山と格闘していた。
「タ……いえ、女将さん」
「なんだい?」
「今日の献立の予定はどういうものでしょう? あと、あの壁の前に並んでいる大きな箱は何ですか?」
マリコは袖のボタンをはずしてまくり上げながら聞いた。
「見てのとおり鶏が主だね。胸と脚の半分を定食用に揚げて、後のところは他の料理と酒の肴用かね。スープも夜の分は鶏の骨から。パンは昨日仕入れたのを使う。パン屋も今日は休んでるからね。ごはんの方は今からだよ。それと、あの箱は冷蔵庫と冷凍庫さね」
「冷蔵庫と冷凍庫!?」
(そんなものがあるのか。電気は無さそうなんだけど、どうやって動いてるんだろう)
「どっちも魔法で冷やすんだよ。細かい仕組みは正直、私もよく知らないんだけどね。普段は、中身の出し入れと魔力の補給しかしないんでね。その辺は後でサニアにでも聞いとくれ」
疑問が顔に出ていたマリコに、タリアが先回りして答えた。要するに魔法の品ということらしい。
「分かりました。では私はとりあえずミランダさんの手伝い、ということでよろしいですか?」
「ふふっ。分かってるじゃないか。じゃあ、頼んでいいかい? まあ、どっちが手伝いになるのか分からないがね。今日来るはずだった通いの娘が風邪で寝込んじまったらしくてね。ミランダだけじゃ荷が重そうなんだよ」
タリアは笑っているが、傍目にもミランダの手つきは怪しげだった。昨日マリコが見た、華麗にお茶を淹れるミランダとは別人のように見える。
「では、手を洗ったら行きます。分からないことがあったら、また聞きます」
「はいよ。私もごはんを炊く準備ができたらそっちに行くよ」
マリコはまず、流しで米を研ぐ作業に戻ったタリアの隣で手を洗いながら、そこにあるものを確認していった。
(水桶、タワシに石鹸、このスポンジみたいなのは海綿かな? うん、現代日本とまでは行かないけど、そこまで大昔な感じでもないな。水道が無いのが不便そうだけど)
洗った手を流しの手前に掛かっていた手ぬぐいで拭いたマリコは、眉根を寄せて鶏におっかなびっくり包丁を入れているメイド服姿のミランダに近づいた。スカートの裾からのぞく赤トラのしっぽの先がピクリピクリと動いている。
「ミランダさん、おはようございます」
「わっ!?」
しっぽを握りしめたい衝動を抑えながらマリコが声を掛けると、ミランダは声を上げて飛び上がった。マリコに気付いていなかったらしく、動いていたしっぽはまっすぐに伸びて膨れ上がっている。
「お、おお、マリコ殿か。お、おはようございます」
包丁を握りしめたまま、ギクシャクと振り返ったミランダは、少々引きつった顔でそう言った。
(ど、殿!?)
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