331 帰還とあれこれ 5
昼食の仕込みが粗方終わった頃、厨房にタリアが顔を出した。このところ執務室に籠っていることの多いタリアは昼食時にも食堂に出てこないことがほとんどで、この時間にここで見掛けるのは珍しい。
「あら、女将。どうしたの?」
「ああ、ちょいと打ち合わせをしてたら、お湯が切れちまってね」
娘の問いに、タリアはお茶のポットを取り出して答えた。自分だけならしばらくお茶が無くても特に困らないが、この後別のもう一組が打ち合わせに来る予定なのだという。では私がと手を出したミランダにポットを手渡し、タリアは話を続けた。
「次のが終わるのは昼を大分回りそうなんでね。済んだらその時にまた出てくるから、今日は私の分の昼は持って来なくて構わないよ」
これもこのところ通例となっているが、タリアの昼食は誰かが執務室に運んで行くことになっていた。もちろん、書類の処理を進めながら食べるためである。
「ええ、分かったわ。あ、じゃあマリコさんが……」
「ん? マリコがどうかしたのかい?」
「あー、ええとですね」
流しで洗い物をしていたマリコは手を止めて振り返った。サニアとの話で、今日はマリコがタリアの分の昼食を執務室まで届け、その時に例の初任給記念のウイスキーを渡せばいいということになっていたのである。しかし、タリアが断ったことで予定が狂うことになってしまった。昼から後になっても構わないのだが、逆に今すぐでも問題は無い。マリコは壜を取り出すと、お礼と共に意味を説明してタリアに手渡した。
「……洒落た事をする、じゃないかい。ゴホンゴホン!」
驚いたように目を見開いて壜を受け取ったタリアは一言言い、それが微妙に鼻声になっているのに気付いて咳払いで誤魔化した。顔が少し赤くなっているところを見ると、若干感情のツボに入ったようである。
「……じゃあ、せっかくもらったんだ。早速一杯もらおうかね」
「「「え!?」」」
照れ隠しなのかさらにとんでもないことを口にするタリアに、今度はマリコたちが驚いた。
「い、いや母さ、女将。この後また打ち合わせじゃなかったの?」
「いいんだよ。今から来るのはエイブラムなんだから。ここんところもう顔も見飽きちまったよ。少し入れといた方が口の滑りが良くなって話も早く進むってもんさね」
「いえ、それは……」
どこまで本気で言っているのか、マリコたちには判断が付かなかった。
◇
「ところで昼と言えば、放牧場には誰が持っていくことになってるんだい?」
幸いなことに壜の封が切られることはなく、お湯を入れ替えられたポットと一緒にそれを仕舞いこんだタリアがふと思い出したようにサニアに向かって言った。
「え? 放牧場?」
自分に向けられた言葉ではなかったが、マリコはつい聞き返した。放牧場では普段サニアの夫であるカミルたちが働いている。そこへ昼食を届けるのは娘であるアリアの仕事ではなかったか。しかし、マリコはすぐに昨日の事を思い出して頷いた。
――放牧場の東に、また灰色オオカミが出たんだよ
灰色オオカミは里の大人たちでも戦って勝つのは難しい。柵の外とは言え、この辺りでよく見かける茶色オオカミより大きくて危険な動物がうろついている可能性があるのだ。そんなところへわざわざアリアをお使いに出す意味は無いだろう。
「それなんだけど、マリコさんかミランダに頼もうと思ってたのよ」
今日は平日で食堂の手伝いの人数は足りている。仕込みが終わってしまえばマリコたちが抜けても困ることはないだろう。二人は構わないと答えた。
「それが良さそうだね。何なら二人で行って来てもいいさね」
サニアの答えに頷いたタリアはマリコたちの方へ向き直る。
「マリコ、あんたはまだ放牧場の向こう側には行ったことがないね?」
「はい」
例のボスオオカミと戦った後、マリコも放牧場までは何度か行っているが里の外までは出たことがない。一方のミランダは流石にそんなことはなく、バルトたちがもう一頭のボスオオカミを倒した場所の辺りまでは知っている。
「なら、行ったついでにこの里の東側も少し見てくるといいさね。もちろん、灰色オオカミを見つけろとか倒して来いとか言ってるんじゃないよ」
「分かりました」
「ミランダもマリコを頼んだよ」
「承知」
もしこの二人が灰色オオカミに出会ったとしても十分対処ができることをタリアは知っている。二人の返事を聞いたタリアはまた執務室へと戻って行った。
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