317 西二号洞窟 1
「その時、夜明け前最後の見張り番に立っていた私はバルト殿と岩の魔物の撃退方法について論じていた。すると突然、マリコ様が天幕から飛び出して来られてな」
「ほう」
声を抑えたアドレーの話にイゴールは相づちを打つ。
「放たれた矢のように広場を駆け抜けていかれたマリコ様は、そこに我々がいたことにさえ気付いておられぬご様子だった。あの時の表情は正にそう、鬼気迫るという言葉がふさわしいものだ。マリコ様はその勢いのまま、手洗いに駆け込んで行かれた」
「ほほう」
「しばらくして出てこられたマリコ様は、どこか解き放たれたような、あるいは何かが抜け落ちたようなお顔になっておられた。しかし今度は我々にも気付かれて、軽く会釈をされた後、天幕へと戻って行かれた。ただ、その時には何故か裸足にサンダルを履いておられてな。その後、天幕の中からマリコ様の唱える浄化の声が」
「それは、まさか……」
「ああ、恐らくは」
「待たぬか、貴殿ら」
重々しく頷き合う二人に後ろから声が掛かった。驚いて振り返ると、少し離れていたはずのミランダが小走りに駆け寄ってくるところだった。
「姫様! 聞こえておいででしたか」
「あのくらい低めた程度で聞こえぬはずがなかろう、我らの耳は」
ミランダが自分の頭上を指して猫耳をピコピコと動かすと、アドレーたちは少しバツが悪そうに顔を見合わせた。
「大体、マリコ殿は間に合ったのだ。粗相などしておられぬ」
「え!?」
「よいか? 危急の事態に陥ったマリコ殿にはブーツを履く余裕が無く、粗相するよりはと靴下のまま走って行かれたのだ。どうだアドレー。貴殿、駆けて行くマリコ殿の足を見たか」
問われてアドレーは思い返す。行きのマリコは走っていたため、翻るスカートの陰に隠れて足先まではっきりとは見えなかった。逆に帰りはゆっくり歩いていたためにサンダルを履いた素足が見えていたのである。
「……いえ、見えていなかったかと」
「ふむ、そうであろうな。それでだ。それが土で汚れたことに、手洗いに辿り着いて粗相を免れたマリコ殿は気付かれた。故にその場でそれを脱ぎ、持っておられたサンダルを履いて戻られたのだ」
「ではあの浄化の声は……」
「土が付いた靴下に向かって放たれたものだ。粗相した下……」
ツンツンと袖を引かれてミランダの声は途中で止まった。振り返るとそこには半ば引きつったマリコの顔。こちらも駆け寄ってきたらしい。
「事実としてはその通りで、庇ってくれるのはありがたいんですが! 恥ずかしいので粗相の連呼はやめてください!」
一行は今また山道を歩いている。マリコの騒ぎがあった後、夜明け早々に起き出して朝食を摂り、テントを引き払って出発してきたのである。
風呂場とトイレは湯船などの中身が回収され、トルステンがいつものように解除で土に返そうとしたところでアドレーたちに止められた。アドレーたちが湯船を持ち歩くことになるかどうかはともかく、当面簡易な建物として使えるので残しておいてほしいということである。
アドレー組には同じ物を作れるほど魔法に長けた者がいない。トルステンとしてもトイレは毎度の事で大した手間でもないのだが風呂場サイズの物を建てたのは初めてである。つぎ込んだ魔力を考えると少々惜しいとは思っていたので特に否やはなかった。今後はバルト組の巡回ルートにも、あちこちに風呂場が建つことになるのかも知れない。
◇
やがて一行は西二号洞窟の入口がある崖の下へと近付いた。ここまで足跡を調べながらやってきたが、今のところ岩の魔物らしき痕跡は見つかっていない。それは結局、洞窟の入口に到着するまで続いた。
「別の方へ向かった形跡も無し、か。やはりまだ中にいるということだな」
手分けして入口周辺を探索し、再び崖下に集まった一同にバルトが宣言する。
「この中で戦うことになるんですね」
「ここはもう目的が近いって考えた方がいいかも知れないね。ほら、もしよそへ行っちゃってたら、追い掛けて見つけるまでどれだけ掛かったか分からないし」
遂に戦闘かと思ってつぶやいたマリコの横でトルステンが明るく言う。確かにいつ見つかるか分からないよりはゴールが見えた今の方が気分的に楽だろうなとマリコは思った。実際、やや気負っていたものが少し抜けたような気がする。
「まあ、トルの言う通りだ。後は魔物を叩いてお宝、がどれだけあるかは分からないけど持って帰るだけだ。いずれまた同じ魔物が湧くかもしれないけど、手負いのまま放っておくよりはずっとマシなはずだな。それじゃ、入ろうか」
「「「「「おお!」」」」」
こうして一行は洞窟へと進入した。先頭はバルトとアドレーで変わらず。次にトルステン、マリコ、ミランダと続き、その後ろにカリーネたち三人、最後尾がイゴールたち四人となっている。前方の脅威に備えた形である。
岩肌の通路はじきに終わり、白っぽいツルリとした鍾乳石の壁になる。幅はさして広くもないが高さはそれなりにあり、垂れ下がった鍾乳石が各々が点した灯りの光を受けて輝いて見えた。時折落ちてくる水滴も輝きに花を添えている。
(床が濡れてて滑りそうですね)
「これは美しいな!」
足元に目を向けるマリコの隣で天井を見上げたミランダが感嘆の声を上げる。元々のバランス感覚はミランダの方が高いようだった。マリコとしては鍾乳洞など観光地で床にセメントの通路が作られた所にしか入った記憶がなく、単に慣れていないために不安を覚えるのかも知れない。
「気に入られましたか、姫様。この先の広場はもっと見応えがありますよ」
自分の事を褒められたような気がするのだろう、振り返ったアドレーが嬉しそうに言う。グネグネと曲がった道をしばらくゾロゾロと進んだ先で、唐突に視界が開けた。アドレーの言う広場に出たのだ。ここにはスライムの住む池がある。
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