301 猫耳育成計画 1
「アドレー。目覚めよ、アドレー」
「う……、ん?」
呼び掛ける声に、眠りの淵に沈んでいたアドレーの意識はゆっくりと浮上した。薄っすらと目を開く。
(よく知っている天井だ)
見覚えのある木目の形や色合い。いつも見慣れた、自分が借りているナザールの宿の部屋の天井が目に入った。それが薄明るく照らし出されている。
(……朝?)
そう思いはしたものの、どこかおかしい。夜が明けたのなら、光はベッドの頭側にある窓から射すはずである。しかし、今明るく感じるのはそちらではなくベッドの横側だった。
(灯りを消し忘れたか?)
まだ睡眠の足りていない頭でぼんやりと考えたアドレーは、横たわったままそちらに目を向ける。
白っぽい人影が宙に浮いていた。
「うわあああっ!」
アドレーは叫び声を上げて飛び起きると、少しでも人影から遠ざかろうとベッドの上で座ったまま後ずさる。だが、壁際に横付けされたシングルベッドの幅など高が知れており、すぐに背中が壁に当たった。蹴り飛ばされて舞い上がっていた上掛けが足元にパサリと落ちる。
「ぎゃああっ!」
途端に今度は浮いている人影から悲鳴が上がる。アドレーはひっと息を飲んだものの、今の悲鳴が明らかに女の人のものであり、なおかつその声に聞き覚えがあるような気がして顔を上げた。
怪しげな白い影だと思ったものは影などではなかった。白い肌に、白い布を巻き付けたような服。宙に浮かんでこそいるものの明らかに実体を持った者である。それが何故か、両手で自らの顔を隠していた。
「貴で……おぬし、何という格好で寝ているの……のじゃ!」
「え!? ああ」
言われて、アドレーは自分の身体を見下ろした。ここしばらくで少し厚みの増した胸と割れ目の見え始めた腹筋が目に入る。暖かい時期の常で、アドレーはパンツ一丁でベッドに入っていたことを思い出した。上掛けを蹴り飛ばしたので今はそれがむき出しになっている。
「さ、さっさと服を着るの……じゃ!」
「え、あ、はい」
相変わらず両手で顔を――というか目を――押えた白い女の言葉に、アドレーは反射的に枕元に置いてあったシャツに手を伸ばした。相手の正体はともかく、女性の前でパンツ一丁というのはアドレーにとっても不本意なことである。急いでシャツを被り、ズボンに足を通した。
「もういいか……の?」
「えー、はい」
じきに衣擦れの音が止んだからだろう、白い女が言う。服を身に着けながらその姿を見ていたアドレーには、女の正体が概ね見当がついていた。
浮かんでいるとはいえ、ミランダより幾分低いと分かる身長と、白い布を巻き付けたような服。顔を覆った手の上に見えている自分やミランダより大きめの耳と腰から伸びた長いしっぽは、銀の毛並みで輝いている。
そんな外見を持つ者を、アドレーは一人、否、一柱しか知らない。アドレーはベッドの上で膝を突いた形に構え直した。宙に浮かんだ女がゆっくりと手を下ろす。
「風と月の女が……」
アドレーの口上は唐突に途切れた。現れた顔が、どう見ても自分の知るある人物のものだったからである。思わずその名が口からこぼれ出る。
「ミランダ姫様?」
「ちがっ、わた……わしはミランダなどではないっ!」
「こ、これは大変失礼いたしました!」
予想外に激しい女神の反応に、アドレーはあわてて頭を下げる。考えてみれば、顔こそ瓜二つと言っていいほど似ているものの、それ以外は違っているのだ。神に向かって異なる名で呼び掛けるなど自分は何を考えていたのかと、アドレーはさらに頭を垂れた。
「うむ、分かればいい……のじゃ。顔を上げよ」
「ははっ!」
顔を上げたアドレーはひたと女神を見据えて、改めて口を開く。
「風と月の女神であらせられますな」
「いかにも」
アドレーの問いに答えた女神は腰に手を当てて胸を張る。その姿勢のまま、ベッドの上に畏まるアドレーを見下ろした。身長こそ低いが、浮かんでいる分女神の顔の方が高い位置にある。
「貴……おぬし、強くなりたいか!?」
「なっ……、いえ、いかにもその通りにございます」
何の用かと問う前に見事に己の望みを言い当てられ、アドレーはさらに畏まる。それを見た女神は、ひとつ頷くと口を開いた。
「ならば剣だけに固執するでない……のじゃ!」
「なんと!? しかしそれは!」
アドレーの当面の目標は、腕相撲でミランダに勝つことである。しかし、それは単に土俵に上がるための条件であって、本当の勝負はその先にこそある。剣にこだわるミランダであるからには、認めさせるためには剣で勝利するのが一番間違いのない道だとアドレーは思っていた。
「槍や斧、弓なども鍛えることで、結果として剣の腕も上がる! のじゃ」
「槍や斧、でございますか?」
「そうじゃ」
確かに、剣とは異なる武器を手にする者と手合せする場合、相手の得物の特性を知らなければ勝利は覚束ないだろう。だがそれは、その得物を使う者に対する対応力が上がるということで、直接剣の腕が上がるのとは違うのではないかとアドレーは思った。しかし、その疑問を口に出す前に女神は次の言葉を発する。
「そして、剣の腕を上げる道は武術だけではないのだ……じゃ」
その言葉はアドレーの疑問をさらに大きくする。
「それは……」
「もちろん、こうして話を聞いただけでは納得できぬだ……じゃろうの。それについては、この里にマリコど……、マリコという者がおるじゃろう?」
「は、マリコ様、ですか」
「そのマリコど……、マリコに教えを請うがよい、のじゃ。彼の者が貴……おぬしらがより力を付けるための方策を存じておるであろう、じゃ」
女神の口からマリコの名が出たことに驚いたアドレーだったが、マリコとミランダの加護の件を思い出して納得する。女神を見上げると頷いた。
「マリコ様に教えを請います」
「ゆめゆめ忘れるでないぞ」
「ははっ!」
アドレーが再び頭を下げる。そのアドレーに向かって、女神の傍に立っていたマリコから睡眠が飛んだ。
何事(笑)。
種明かしは次回に。
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