267 探検と冒険 10
防音とはその名の通り、効果範囲の内と外との音の伝達を遮断する魔法である。一般的にはタリアが時折やるように内緒話に使われることが多いが、遮断する方向を決められるため、職人や芸術家が作業に没頭する際に外界の雑音から逃れるのにもよく使われていた。探検者たちはもっぱらこれを野外や洞窟内で自分たちが発する音が動物や魔物に気付かれるのを防ぐのに使っている。
また、例えば火矢は射程と威力が決まれば消費する魔力の量が決まる。逆に言えば籠める魔力量によって射程や威力が変わり得る。防音においてこの射程と威力に当たるのは、効果範囲、持続時間、遮断する音量の許容域――それを越える音量だと遮断し切れない――の三つであった。
それぞれを広く長く強くしようとすれば当然それだけ多くの魔力が必要になるのだが、豊富な魔力量を誇るマリコがそこでケチるとはミランダには思えなかった。範囲はともかく、時間と許容域は十二分に確保されているだろう。マリコ自身が解除するか、誰かがマリコを越える強度の無効化を行わない限り、この部屋の中で発する音が外に漏れることはない。それも恐らくは朝まで。
つまり今聞こえているように、マリコはもう自分が不意に発する声を気にしないだろうということである。
アニマの部族に連なる者の耳、つまり猫耳は大きい。手の平で耳たぶごと押さえ込むのは不可能なのである。そこでミランダは耳の穴に人差し指を突っ込んでいるのだが、それでも耳の性能故にどうしてもある程度は聞こえてしまう。自分でも声を出せば耳の中で音が響いて聞こえなくなるだろうが、それをやってマリコに気付かれないわけがない。同じ理由で自分の周囲に防音を張るという手も使えなかった。
(これを盗み聞くのはやはり失礼に過ぎるであろう)
もし逆の立場だったらと、考えただけで恥ずかしさに顔が熱くなる。ミランダは耳に届く声を無視して無心にやり過ごそうとした。もしマリコがただひたすら行為に耽溺して母音と「ん」ばかり発していたなら、その決意は貫けたかもしれない。しかし、実際にはそうではなかった。ミランダは度々マリコの「言葉」に気を取られることになる。
「あ、こ、こんなところがぁあっ」
(……どこのことだ?)
「え、ここ? あ。ん、くうっ」
(今度はどこだ)
「た、確かこうして……、はああぁ!」
(何をどうなされたのだ!)
「ああっ、これえぇいぃ」
(どれだ!?)
もちろん、全部がこうなのではない。マリコは自らの身体を探ってでもいるかのように、色の付いた声の合間に時折このような驚きや納得のつぶやきを発するのである。それはさすがにミランダをもってしても無視し続けることができなかった。気になる事甚だしい。
普通、他の者がどうしているかなど知る機会はほとんどない。いかに同性同士であっても「どうやっていたすか」などという直截的な話はまずしないだろう。少なくともミランダはしたことがなかった。そのため、ミランダが「いたす」のは多少聞きかじったことを元に気持ち良さそうなところを触れてみるという程度である。
そして聞いている限り、マリコもそう経験豊富というわけではなさそうだった。もしかするとそういうことをするのが初めてなのではないかとさえ思えたが、さすがにそこまでではないようだ。しかし、どこかで仕入れた知識――しかもミランダのものより具体的な――を実践によって確認しているとしか思えない。そうであれば。
ふと顔を上げると、わずかに開けておいた引き戸の隙間から差し込む光が目に入る。夜に飛ぶ虫が明かりに引き寄せられるように、そちらに顔が近づいていくのをミランダは止められなかった。
(これはマリコ殿を覗こうというのではないのだ。己の正誤を確かめるため、先達の模範を拝見させて頂く。朝の鍛錬と同じことだ)
それが言い訳にもならないこじつけに過ぎないことを頭の片隅で理解しながら、ミランダは左の頬を壁に擦り付けるようにしながら物入れの外に目を向けた。ベッドの高さは押入れの中に座っているミランダの頭より低い。ベッドの上が見渡せるはずである。
ほぼ正面にベッドの足元側の端が見えた。マリコが蹴り寄せたのだろう、上掛けがベッドの隅に片寄せられて小山になっている。そこにマリコの足先が見えた。指がキュッと丸まったり足首がピンと伸びたり左右の足先が擦り合わされたり。声に合わせて、何か別の生き物のようにくねくねと動く足首とそこから伸びた滑らかな脛。ミランダは息を呑んだ。
しかし、見えたのはそこまでだった。わずかな隙間から得られる視野角はごく狭いのである。ミランダははあとため息を吐こうとしてあわてて口を押えた。今見つかっては目も当てられない。
ゆっくりと息を吐き出して気を落ち着けた後、ミランダは少し考えて隙間の下の端に指を入れた。床を押えつけるように下向きに力を掛けながら、指を転がすようにゆっくりと回転させて引き戸を押す。音を立てないよう、細心の注意を払いながらそっと、そうっと、ほんのわずか隙間を広げた。
改めて隙間に目を近付ける。足首から脛、そして膝へと続いていくはずの景色はしかしすぐに途切れており、ミランダは目を見開いた。押入れとベッドの間に置かれたテーブルとイスが、マリコの膝から上を隠していたのだ。テーブルクロスの掛けられたテーブルは元より仕方がない。だが、その横に置かれたイスが元通りの位置にあったならミランダの視界はもっと開けていたはずだった。
しかし今イスはベッドの方を向いて置かれ、その背もたれにはマリコのメイド服とエプロンが無造作に掛けられていた。ミランダが聞いた、マリコがベッドに倒れ込む前の軽い音。それはそれらがそこに引っ掛けられた音だったのである。奇しくも、マリコの服は放り出されてなお、マリコの身体をミランダの視線から守ったことになる。
もしこの場でミランダが立ち上がることができたなら、テーブル越しにマリコの様子を俯瞰することができただろう。だが、ミランダが潜んでいるのは押入れの下段である。立ち上がることは叶わない。これ以上を望むなら最早押入れから出る以外に手はなく、ミランダはその道を選ぶわけにはいかなかった。
ここに隠れた当初の目的は覗きではなく、消えるマリコの謎解明である。ミランダはそれを忘れてはおらず、優先順位を違えることもなかった。明日も挑戦を考えている以上、今夜見つかるわけにはいかないのである。マリコの気が済んで荒い息が寝息に変わるまで、最早無心では居られなくなったミランダは蠢くマリコの足を眺めて過ごした。
◇
マリコが意識を落としてさらにしばらくの後、ミランダはようやく押入れから這い出した。立ち上がって腰を伸ばそうとしたところでうっと息を詰まらせる。部屋の空気がどこか甘酸っぱくなっていた。普段はほとんど分からないマリコの体臭に何かを足して濃縮したような匂い。
これに似た匂いには宿屋で仕事をしていると時々出会う。随分昔に父母の部屋に入った時に同じような匂いがしたような覚えもある。それが何によるものなのか今まさに思い至ったミランダは頬に熱を感じ、同時に今度から自分も気を付けようと密かに思った。
そのまま振り向かずに部屋を出ようかとも思ったミランダだったが、押入れの中に伝わってきた様子からそのままにしてはいけないような気がしてそっとベッドの方を振り返った。
「……やはり」
予想通りの光景に一つため息を吐く。寝落ちしたマリコはいろいろと放り出したままだった。大分暖かくなってきているとはいえ、夜明け前などはまだまだ肌寒いこともある。ミランダはマリコの足元に丸まっていた上掛けを広げてその身体を覆い隠し、この後眠れるだろうかと唸りながら今度こそマリコの部屋を後にした。
大幅に省略して「翌朝――」ってやろうかとも思ったのですが、それやったらきっと非難囂々だろうなあと(笑)。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。




