255 行きつ戻りつ 8
マリコが番台の後ろから洗濯場に抜けると、そこにいたのはマリーンだけではなかった。マリコも顔を見知っている、アイロン掛けなど洗濯物の始末を担当しているパートのおば……、いやお姉さんたちが二人ほど増えている。何人か早目に来てほしいとサニアから呼び出しが掛かったのだそうだ。
アイロンは形こそ現代日本の物とよく似ているが、電熱線が仕込まれているわけではなく基本的には取っ手の付いた単なる鉄の塊であり、それを熱して使うのである。風呂釜の上部にアイロンを並べる場所が設けてあり、風呂を沸かす時の余熱を利用して熱することができる仕組みになっていた。
普段なら昼を回ってから風呂を沸かし始めるのでアイロン掛けもその時に行われるのだが、今日は風呂焚きが早まったのでそれに合わせて前倒しになっているということらしい。もっとも肝心の洗濯物がまだ全部は乾いていないので、パートさん総動員ということにはならなかったのである。
「……で、これなんですけど、お願いできますか」
「漆喰に浸かったんですか。ええと……」
マリコは彼女たちに事情を話して桶に入れられたブランディーヌの服一揃えを渡した。マリーンは受け取った物を広げながら確認していく。
「これなら洗濯機より手洗いですね。分かりました、やっておきます」
汚れがほぼ漆喰だけであり、水浸しにされたおかげで乾いてこびりつくことなく持ち込まれた、不幸中の幸いとでも言うべき状態である。後は折り目などに入り込んで残っている分を手洗いで落として脱水すれば十分でしょうとマリーンは請合った。水の集中砲火は洗濯という観点では正解であったらしい。
マリーンに礼を言ってマリコは番台へと戻ったが、続いて入浴しようとする者は現れず、時折男湯の沸き加減を見に行く以外は番台に座って過ごした。騒ぎのおかげで途切れてしまった魔力回復力上昇も再び使って、魔力の方も順調に回復していく。
やがて、男湯がそろそろ入れる湯加減になった頃、ようやくカリーネたちが上がってきた。約一週間振りの入浴を満喫していたらしい。もちろんブランディーヌも一緒である。マリコがわざわざ振り返って見るまでもなく、四人分の声でそれと分かった。じきに何やら驚いたような声が上がり、足音が番台の方へ近付いてくる。
「マリコさんマリコさん」
「はい?」
掛けられた声にマリコが斜め後ろを振り返ると、とりあえず下着だけ着けたカリーネがマリコを見上げていた。斜め上から見下ろす形になってしまった胸の谷間に、マリコは内心「おお」と思うと同時に「何で今さら」とも思う。なんとか表情を取り繕っているマリコに構わず、カリーネは話を続けた。
「ブランディーヌさんに宿の寝巻きを出してあげてほしいの」
「え? ブランディーヌさん、着替え持ってなかったんですか!?」
マリコは思わず脱衣所の方へ目を向けた。すると確かに、服を着ている最中のサンドラとミカエラの隣でブランディーヌだけが裸のままで所在無さそうにしている。先ほど風呂場に入ってきた時もブランディーヌは手ぶらだった。しかし、それは必ずしも着替えを持っていないことを意味しない。この世界の人々は十歳以上であれば基本的に誰でもアイテムボックスが使えるからである。
マリコ自身も、さすがに全部の服をアイテムボックスに仕舞ったりはしていないが下着の替え程度は常に入れてあった。そのくらいは持っているのが大人としての常識であると、かつてタリアに教わったのである。まだ小さいアリアでさえ、風呂に行く時は道具や着替えをアイテムボックスに入れていた。そういったわけでマリコは手ぶらでやってきたブランディーヌをおかしいとは思わなかったのである。
「ええと、何なら私か裏にいるマリーンさんがブランディーヌさんの部屋まで行って取ってきましょうか、着替え」
マリコは何となく声を潜めてそう言った。風呂場には宿泊者のための――日本の旅館の浴衣そっくりな――寝巻きやサンダルなどが常備されているので、それを貸し出すことは特に問題でもなんでもない。実際マリコもお世話になったことがある。
しかし、下着までは置いていないのだ。このまま浴衣を渡してしまうと、宿の中だけとは言えブランディーヌはノーパンで歩かなければならなくなる。故にマリコはそう聞いてみたのだった。
「それ、私も言ったんだけどね。今誰かを部屋に入れるわけにはいかないって。そんなに散らかしてるのかしら」
マリコにつられたようにカリーネも小声で答えた。
「それは一体どういう……あ」
疑問を口にしかけたマリコは、その途中で自分がブランディーヌの部屋を訪れた時の事を思い出した。それは朝、洗濯物の回収に行った時のことである。マリコのノックに対して扉を細く開けたブランディーヌは、その隙間からシーツなどの洗濯物と替えの交換を手渡しで行い、マリコを部屋に入れようとしなかった。これはマリコだけの話ではなく、他の者が交換に行った時も同じだったらしい。
改めて思い返してみれば、魔法や趣味のことでブランディーヌと話したことは何度かあるが、場所はいつも神格研究会の部屋と食堂のどちらかで、今ブランディーヌが住んでいる部屋に入ったことは一度もない。これはどういうことか。しかし、マリコは早々にその理由に思い当たってしまった。
(誰にでも見せるわけにはいかない本の山があるか、誰にも見せられないような原稿があるか、あるいはその両方なんですね、ブランディーヌさん……)
「これを持っていってあげてください」
「……分かったわ」
何かに納得したように浴衣と兵児帯を差し出すマリコに、こちらも何かを察したのか特に何を聞き返すわけでもなく受け取るカリーネ。戻って来たカリーネからさらにそれを手渡されたブランディーヌはマリコの方に向いて頭を下げた。
それからさらにしばらくして――女の人は風呂から出るのにもいろいろと時間が掛かるものである――浴衣姿になったブランディーヌがマリコのところへやってきた。
「着ていた物は全部洗濯に回しておきましたから、明日には受け取れると思いますよ」
「何から何までありがとう、マリコさん」
「いえ、それは構わないんですけど……」
マリコは一つ残っていた疑問を口にした。ブランディーヌが着替えを全く持っていなかった件である。
「あー、それねえ。どうしてか時々忘れるんですよ。原稿やその時使ってた資料なんかを仕舞うのは忘れないんですけどね」
「……そうですか」
割と予想通りの答えが返ってきて、マリコは頷くしかなかった。
もう一度ありがとうと言ったブランディーヌは、何となく腰回りを気にしながらもサンダルの足音を響かせて風呂場を出て行く。それを番台から見送りながら、彼女が途中でまた転んだり階段で誰かとぶつかったりすることが無い様、マリコは密かに祈った。
革製の靴を洗濯するわけにもいかないと脱いだままになっていたブランディーヌの靴がそのまま置き去りになっているのにマリコが気付くのはもう少し後のことである。
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