254 行きつ戻りつ 7
マリコは目を閉じて周囲の気配を探った。あまり正確とは言えないものの、近くにいる人や動物の気配をマリコはある程度感じ取ることができる。こういうところも今の身体が持っている能力なのだろう。十メートルほど後方に洗濯場のマリーンらしき感じがあるなと思っていたら、反対側の宿屋の方向に何人かの気配があるのに気が付いた。
じきに風呂場の出入口の外から足音と話し声が近付いてくるのが聞こえた。早速誰かがやってきたようである。引き戸がガラリと開いた後、今度はぺたぺたと裸足で木の床を歩く音が聞こえた。多分サンダル履きで来たんだなあとマリコは思う。
風呂に入りに来る里の者は、宿に住んでいる者も含めて軽装でやって来ることが多い。当たり前と言えば当たり前のことではある。しかし、ここへ来た当初のマリコはメイド服に編み上げブーツのまま風呂に来ることが多かった。大抵は風呂から出た後にまだ仕事があるので、寝巻きでというわけにもいかないのである。
ただ、その時面倒なのが編み上げブーツだった。土間から上がり降りする時の脱ぎ履きが手間なのである。そこでしばらく前から風呂に行く前に自分の部屋でサンダルに履き替えることにした。その後の仕事は片付けや翌日の準備なので人目につくわけでもなく、タリアにも構わないとは言われている。
(それでも見た目が微妙なんですよねえ)
ロングタイプのメイド服を着ている時は裾に隠れてほとんど見えないのでまだマシなのだが、ミニの時は何ともちぐはぐな姿になる。
(そういえば靴の替えはまだ買っていませんね)
始めに渡された支度金では足りないだろうと後回しになっていたのである。幸い、今のマリコはなんやかやで懐が温かい。裸足の足音を聞いてそれを思い出したマリコがメイド服に合う短めの靴を買おうと思ったところで女湯の暖簾が捲られた。
「こんにちは。お風呂、早々とありがとうございます。……あれ、マリコさん?」
「え? あ、ほんとだ」
「こんにちはー」
やってきたのはやはりカリーネたち三人だった。さすがにもう革鎧姿ではなく普段着になっている。マリコはいらっしゃいませと挨拶を返しながら、この三人もあの現場にいたのだということを思い出していた。いたどころか、実際は目の前特等席である。
「食堂で姿が見えなかったから、もしかしてまだ部屋に籠ってるんじゃないかって思ってサニアさんに聞いたんだけど、もう仕事に戻ってるわよって。なるほど、ここなら見つかりにくいわね」
「ええと……、まあ」
さすがカリーネといったところか、マリコがここにいる理由も分かっているようである。
「それでバルトのことなんだけど……」
「あー、とりあえず、先に入ってこられては? お風呂」
さらに何か言いかけたカリーネを遮るようにマリコは言った。カリーネたちはバルトの組のメンバーなので無関係というわけではない。逃げてしまうわけにはいかないだろうなとはマリコも思う。しかし、番台の上と下でする話でもないような気もするし、せっかく風呂が早く沸いたのだからという理由もあった。
もっとも何をどう話せばいいのかはマリコにもよく分からない。むしろこういう時の女の人の感覚がどういうものなのか、どうとらえればいいのか、教えて欲しいくらいだった。
「……そうね。私もちょっとせっかちだったわね」
カリーネはふうと息を吐くとミカエラとサンドラを促してそのまま奥へ入った。宿に住んでいる者や泊まっている者は宿代に風呂の利用料も含まれているので、特に何も支払う必要は無い。その場合も本来なら部屋の鍵などを確認するのだが、さすがに探検者たちの顔は知られているので素通しである。
マリコはそれを見送った後、正面に向き直る。来るのがカリーネたちだけとは限らないからである。
少ししてまたカリーネが呼ぶ声がしたのでマリコは何の気なしに振り返り、目に飛び込んできた光景に一瞬固まった。服を脱いだ三人が浴室に繋がる扉の前でマリコの方を見ていたのである。
「私たちが出てくるまで、どこかへ行ってはダメよ」
代表するようにカリーネがそう言い、マリコが辛うじて頷くと三人は浴室へと消えていった。マリコは止めていた息をはあと吐き出す。これもよく分からないことの一つである。彼女たちとはこれまで何度か一緒に風呂にも入っている。今まで特に意識せずにやってこれたものがどうして今さら気になるのか。
精神が身体に慣れてきたのだと女神は言っていたが、一体自分の中身はどうなっているというのだろうか。
マリコとして生きようとは思っている。女神に頼んで現在は固定されている「容姿」の項目をいじれば男になることも不可能ではないのだろうが、それをしようとは思わない。それでは「マリコ」が消えてしまうからである。
(それに……)
さらに考えをすすめようとしたマリコの耳に、再び外の引き戸が開くガラリという音が聞こえた。次の人が来たのかと座り直したものの、しばらく待っても土間まで入っていた誰かが上がってくる様子はない。やむなくマリコは番台から降りると暖簾の間から顔を出した。
「ブランディーヌさん!?」
そこには、上がり框に腰掛けて作業靴の靴紐を解こうと悪戦苦闘している、作業着姿のブランディーヌがいた。頭から水でも被ったのか全身びしょぬれで、髪の先からは水滴がポタポタと落ちている。マリコの声にブランディーヌが顔を上げた。
「あ、ああ、マリコさん」
「一体どうしたんですか!?」
「い、いやあ、荷物を運んでたら足元がよく見えてなくて、漆喰を混ぜてた大きなバットみたいなやつに倒れこんじゃって……」
幸い深さは三十センチもないくらいだったので、怪我もなくすぐに助け起こされたそうだが、漆喰を洗い流すのにその場であちこちから水を浴びせられてこの有り様になったらしい。またしてもエイブラムにさっさと風呂へ行けと言われたそうである。
「濡れて結び目が固くなっちゃってて……」
身体が冷えたことも手伝って、靴が脱げずに困っていたらしい。マリコはすぐさま土間へ降りるとブランディーヌの靴紐を解いた。マリコの器用さと力があればどうということはない。
「そのまま洗い場まで行ってそこで脱いでください。風邪引きますよ!?」
ブランディーヌの肩を支えるように抱いて脱衣所を突っ切り、中に声を掛けて洗い場まで連れ込んだ。何事かという顔のカリーネたちに簡単に事情を話し、皆で寄って集ってブランディーヌの服をむいていく。濡れた服というのは互いに貼りついてとても脱ぎにくいのである。
ようやく脱がし終え、ブランディーヌ本人はカリーネたちに頼んでマリコは服の塊りを抱えて風呂場から出た。水で流したとはいえ、中にはまだ漆喰らしい白っぽいものがところどころ残っている。
(洗濯できるかどうかはともかく漆喰だけは流しておかないと)
それをマリーンに頼むべく、マリコは裏へと向かった。
ドジッ娘の気配?
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。




