251 行きつ戻りつ 4
宿屋の建物は上から見るとロの字の形をしており、マリコの部屋と厨房は中庭を挟んで向かい合わせの位置にあった。マリコの部屋から左へ出て、突き当たりの角をさらに左へ曲がると廊下が伸びている。マリコはそこを真っ直ぐ進んで正面にある扉の前に立った。これを開ければそこはもう厨房である。
「ふううぅ」
ドアノブに手を掛ける前に、マリコは一度深呼吸をした。自分のやったことを客観的に思い返してみれば、頭を撫でられた程度のことで赤面して逃亡、職場放棄である。はっきり言ってしまえば非常にバツが悪かった。仕事を放り出したことで叱られるのは仕方ないにしても、それ以外にどんな反応が待っているのか見当が付かない。
(とは言え、ここでずっとうろうろしてるわけにもいきませんし)
マリコはフンと気合いを入れると扉を開けて厨房へと入った。目の前の作業台ではサニアが一人で食器の整理をしており、朝のパート組は帰った後らしく他には誰もいない。カウンター越しに見える範囲のフロアにももう客らしき姿はなく、青緑の髪をツインテールに結ったジュリアがテーブルを拭いているのが見えた。
「あら、お帰りなさい」
「え、あ。あのっ」
マリコに気付いたサニアが早速声を掛けてきた。予想に反してにこやかな様子にマリコが返事に詰まっていると、サニアはさっさとマリコから目を離してフロアの方へ振り返って声を上げる。
「マリコさんが戻ったわよー!」
「ええっ! もうですか!?」
「何っ!?」
サニアの声にジュリアが顔を上げ、マリコからは見えない位置からも声が上がった。今の声はミランダさん、とマリコが思うのとほぼ同時にカウンターの向こう側にミランダが現れた。マリコの姿を認めたミランダは表情を輝かせるとバッと後ろを振り返る。
「それ見たことか。私の言った通りであろうが」
「くうっ、外しましたか。これはやはりミランダさんの方が人となりをよく知っていたということでしょうか」
勝ち誇るミランダと台拭きを持ったまま腕組みをして悔しそうなジュリア。何のことだか分からないマリコはサニアへと目を向けた。さっきマリコの帰還を早々と知らせていたことから、何か知っているに違いないのである。
「ん? ああ。マリコさんが逃げ、いえ駆け出していってから皆好き勝手言ってたんだけどね。そのうちに、いつ戻ってくるだろうっていう話になったのよ」
マリコとしては、好き勝手という部分が非常に気になったものの、とりあえず黙って話を聞いた。サニアが言うには、その場にいた者たちの間でああだこうだと意見が割れ、「そんなに言うなら賭けるか」という流れになったらしい。負けた方が一杯奢る、程度の話だったので誰も特に目くじら立てなかったようである。
「それで選択肢は、お昼の仕込みが始まる前に戻ってくる、お昼までに戻ってくる、それより後、の三つだったのよ。私は見届け役にされちゃったから参加できなくて残念だわ」
「何ですか、それは」
後で発表してあげなくちゃ、とサニアはメモ書きと小銭の詰まった袋を見せてくれた。メモには選択肢ごとにミランダやジュリアも含めて全部で十数人の名前が書かれている。勝った組が小銭の分余計に飲み食いできるということらしい。
名前の数からすると一番人気は「お昼の仕込みが始まる前に戻ってくる」である。これはそれなりに信用があるのだと喜ぶべきなのだろうか。自分が原因ではあるのだが、何というかおおらか過ぎる気がしてマリコとしては呆れるしかなかった。
「ちなみにね。不成立になっちゃうから誰かが呼びに行くのはなしってことになってたのよ」
「え」
自分で出てこなければ本当に職場放棄になるところだったようである。マリコは額に冷や汗が浮かぶのを感じた。そんなマリコにミランダがカウンター越しに申し訳なさそうな顔を向ける。
「始めは私が様子を見てくると言ったのだ。そうしたら皆に止められてな……」
「そっとしておいてやれ」、「そうはいかぬ」という話から、「マリコさんはそんなに弱い人なのか」、「そんなはずがなかろう」という話を経て、いつの間にか皆を相手に「マリコ殿はじきに戻ってこられるに決まっている」と主張していたそうだ。そこから「そんなに言うなら賭けるか」という話になったらしい。
「いや、誠に申し訳ないことを」
「いえ、元々申し訳ないのは私の方ですから」
乗せられてしまったことに気が付いたミランダとそもそもの原因であるマリコはペコペコと頭を下げ合った。その様子を眺めながら、こちらもカウンター越しにサニアとジュリアが笑い合う。
「やっぱりマリコさんは面白いわね」
「面白いと言いますか、不思議ですよね。いろんなことがものすごいレベルでできて、いろんな経験を積んでるはずなのに、時々何でこれを? みたいなことを知らない様子だったりします」
「そうね。落ち着いてる時は実は私よりずっと年上なんじゃないかって思えるんだけど、あるわよねそういうとこ。その上今日みたいなことがあると、やっぱり本当は若いのねって思い直すの」
「そうなんですか? こんなに早く復活してくるなんてすごいと思いますよ。もし私が人前であんなことされたら、恥ずかしくて絶対部屋から出ないと思います」
「あらあら、そうなの?」
自分が誰かに頭を撫でられるところでも想像しているのだろう。わずかに頬を赤くしたジュリアを見ながら、サニアは皆若いわねえと密かに思った。
◇
その後、逃げ出したことを改めて詫びたマリコだったが、サニアは笑って許してくれた。実際、マリコが厨房から出てきていた時点で食堂としての忙しさはピークをかなり過ぎており、逆に考えてみれば、まだかまどの前で腕を振るっている状態だったならマリコもさすがに逃げ出しはしなかっただろう。それ以前にカウンター越しでは花を渡すのはともかく、頭を撫でられたかどうか疑問である。
「それでマリコさんにお願いなんだけど」
「なんでしょう」
「ご覧の通りここは今のところいいから、洗濯場を見てきてくれないかしら」
「洗濯場、ですか」
「ちょっと押しちゃってるのよ」
マリコも料理番ばかりしているわけではない。宿の仕事は一通りやったし、人手が足りない所へヘルプに行くのもいつものことである。普段通りなら洗濯場では風呂の残り湯を使っての洗濯が行われている時間帯だった。
「分かりました。いってきます」
(押してるということは洗濯物が多かったんでしょうか)
返事をしながらマリコは考えた。今朝あった予定外の出来事と言えばバルトたちが少し早めに戻って来たくらいだが、彼らの分が増えた程度では予定が遅れるほどの影響はないだろう。洗濯機自体は一台きりではないのだ。
(ああ、でもこのところ泊まりの方が増えてますしねえ)
これもマリコが原因と言えば原因なのだが、エイブラムやブランディーヌを始めとした神格研究会やその支部建設関係の人々が泊まっている。彼らの分も考えればマリコがここに来た時よりは確実に増えているだろう。
「まあ、行ってみれば分かりますか」
部屋に戻った時に活け替えればいいだろうと、記憶の通り厨房に仕舞われていた花瓶を一つ借り出してマリコは厨房を出た。
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