250 行きつ戻りつ 3
時間は少々遡る。
自分の部屋に駆け込んだマリコは、山桜の枝をそっとテーブルに置くと荒い息を吐きながらベッドにボスッと腰を下ろした。そのまま後ろにぱたりと倒れ込んで深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。そうして心が少し落ち着きを取り戻してみると、自分が逃げ出して来たのだという事実に気が付いて頭を抱えてひとしきり転げまわった。
「どうして私が逃げなくちゃいけないんですか!」
よく分からないがとにかく何かに耐えられなかったのである。
否、本当は大体分かっていた。突如目の前に現れた桜の花に目を奪われてしまったことはまだいい。その後のマリコの心の内を読んだかのようなバルトの言動に冷静で居られなかったこと。頭を撫でられるのを避けられなかったこと。そして、その手を心地好いと感じてしまったこと。それらをひっくるめて、その場にいることが耐えられなくなったのだった。
「うぐぐぐ」
しばらくベッドの上で丸まって唸っていたマリコの目に、ふと桜色が映り込んだ。机の上に置き去りになっている枝である。既に満開を迎えて散り始めているとはいえ、このまま放っておけば散る前に萎れてしまうだろう。さすがにそれはマリコとしても本意ではなかった。花に罪があるわけではないのである。
ふうとため息を吐いてマリコはよいしょと起き上がる。しかし、起き上がってはみたものの、マリコの部屋にはそもそも花を活けられるような物がないことに気が付いた。かといって探しに行けるはずもない。宿の中で使う道具類は大抵厨房か洗濯場のどちらかに置いてあり、花器の類は厨房にあった覚えがある。どの面下げて行けというのか。
マリコの持ち物ならどうかというと、水を入れておける物は二つしかない。カップと風呂用の桶である。ウイスキーの空き壜があれば良かったのだが、今朝厨房に置いてきてしまった。カップでは小さ過ぎるので選択の余地は無い。マリコは桶を取り出すとそこへ魔法で水を張った。便利魔法様々である。
そこへ山桜の枝を浸しておいて、改めて眺める。花こそたくさん付けているが、それは決してきれいな枝振りではなかった。あちらこちらと捻じ曲がり、太い部分を追っていくと歪な多角形を描いている。螺旋状と言ってもいい奇妙な形をしていた。
桜の枝は割りと無節操に伸びる。柳のように同じ方向に揃って枝が伸びるのではなく、あちこちから脇芽を出してそこから四方に伸びていく。その先に他の枝があろうとお構いなしである。そうして重なり合いお互いの邪魔になるようになった枝は風で揺れた時などにどちらかが容易くポキポキ折れる。
桜の木の下へ行くと折れた小枝がたくさん落ちているのはそういう理由なのだ。そうやって「結果的に」木全体が葉で覆われる形になっていく。言ってしまえば、桜は随分と不器用な伸び方しかできない木なのである。
今マリコの目の前にある枝も、途中で先が折れては横へ折れては横へと伸びて行ったものらしかった。外に向かって伸びている見栄えのいい枝ではなく、恐らく内側に向かっていた枝。バルトはそういう、切っても大丈夫そうな枝をわざわざ選んで持ち帰ったということになる。
女の子への贈り物という意味では多分落第なのだろう。誰だってもらうなら見栄えのいい方がいいに決まっている。そう考えながらも、マリコは苦笑いするしかなかった。何故なら困ったことに、同じように捻じ曲がった桜の枝を手折った経験が自分の記憶の中にあったからである。その枝を手渡されたのはもちろん真理子だった。
◇
薄桃色の花びらが一片、はらりと舞い落ちる。ベッドに座り直したマリコはそれをなんとなく目で追った。桜の花びらはマリコに遠い記憶を思い起こさせる。
高校時代、入学式翌日の放課後、姉に連れられて部室にやってきた真理子はもごもごと小さな声で挨拶をして頭を下げた。その頭の天辺に桜の花びらがくっついているのに気が付いて、何の気なしに手を伸ばして取ってやったのである。
その途端、さっきの小声はなんだったんだというくらいの、ひゃあという大きな悲鳴を上げて真理子は姉の後ろに脱兎の如く逃げ込んだ。花びらを摘んだまま一瞬固まった後、呆然として真理子に目をやった。
しかし、俯き加減の真理子がどんな表情をしていたのかは分からなかった。その頃は長かった前髪に隠されて顔がほとんど見えなかったのである。ただ、頬や口元など見えている部分は真っ赤になっていた。それが真理子と初めて会った時のことである。
この子人見知りなのよと言いながら、自分で引っ張ってきた妹を放っておいて、真理子の姉は自分の彼氏とばかり話していた。当時は何なんだと思ったものだが、後から思えば元々そういうつもりだったのだろう。その点は一応感謝もしている。
翌年の春にも、同じように真理子の頭に付いた桜の花びらを取ってやったことがある。もう飛び退かれることはなく。この時はついでに頭を撫でた。その髪の感触と前髪を切った真理子のふにゃっと細められた目は今でも思い出すことができる。
それ以降、毎年のように二人で桜を見に行った。頭や肩に付いた花びらを取ってやったことも取ってもらったことも幾度となくある。頭を撫でたことも撫でてもらったことも。それこそ、いつどちらが、などという些細なことが気にならなくなるくらい。
(この辺りの思い出やら昨夜の記憶やらがごっちゃになったんでしょうか)
マリコは山桜を視界に収めたまま、目の前に手の平をかざした。この手は真理子を撫でた手か、それとも自分を撫でた真理子の手か。どちらでもあるような気もするが、身体の来歴を考えればどちらでもないということにもなる。それを見つめながらにぎにぎと開け閉めしたマリコはふうと息を吐いた。
「考えて分かるものでもありませんか。っとそれより」
心が穏やかさを取り戻したところで、マリコは現実も思い出した。思わず飛び出してきてしまったものの、まだ仕事の途中である。朝のピークは過ぎたとは言え、放り出しておいていいものでもない。
(バルトさんたちはまだ食堂にいるんでしょうか)
いつも通りならタリアに報告をした後、部屋に戻るなり風呂に行くなりするはずである。しかし、この時間ではさすがに風呂はまだ沸いていない。彼らがまだ朝食を食べていない可能性もある。
バルトだけの話ではないが、無事に戻ってきてくれたことは純粋に嬉しいと思える。ただ、さっきの今ではまた妙な反応をしないとも限らない。鉢合わせはしたくないなあと思いながら、それでもマリコはなんとか重い腰を上げた。
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