240 八つ当たり 5
ガラガラという音にマリコはハッと我に返った。手にしていた手拭いで顔をゴシゴシとこする。幸いミランダを見つめていたのはわずかな間だったので、マリコが自覚した異変は誰にも気付かれなかった。顔を一振りして邪念――としか思えないもの――を振り払ったマリコは音の源、つまり引き開けられた浴室の扉の方に目を向ける。
「お疲れ様でーす」
そう言いながら白く煙る湯気を割って現れたのはブランディーヌだった。自分用の桶や手拭いは持っているものの特に身体を隠そうともせず、そのままスタスタと歩いてくる。背丈ではミランダに及ばないものの、身体の前で揺れているものはマリコほどではないがかなりの大きさだった。
その姿を凝視しそうになったマリコは目を閉じてもう一度顔をこする。そんなマリコにお構いなく湯船の近くまで来たブランディーヌは浸かっているマリコたちに軽く頭を下げて洗い場に座ると、掛け湯もそこそこに頭からお湯を被って青い髪を洗い始めた。とにかくさっさと洗いたかったという雰囲気である。
立っていたミランダが湯船の中に腰を下ろし、四人はなんとなく顔を見合わせる。今はまだ夕方前で風呂場にはさっきまでマリコたちしかいなかった。狩りから戻った自分たちや半ば隠居したような年配の人以外が入浴するには少し早い時間帯なのである。目配せし合った結果、代表するようにミランダが口を開く。
「ブランディーヌ殿、こんな時間にどうなされた」
「え? ああ、神格研究会の支部を建てることになった畑の移転を手伝ってたんですけどね……」
泡だらけの頭をガシガシやりながらブランディーヌが語った話はこちらの世界ならではの内容だった。まずは林や草地だったところを主に土系統の魔法を駆使して拓き、一定の深さまで土を丸ごと取り除く。そこへ移転する畑の表土などを深さごとにこれまた魔法やアイテムボックスを使って移動させるのだと言う。
簡単に言えば土ごと引っ越すのである。そうすることで新たに開墾した場所もとりあえず畑として使えるようになるのだそうだ。もちろんすぐに前と全く同じとはいかないが、普通に開墾するよりはずっと早い。昨日着いたのはそういった作業や魔法が得意なメンバーだそうで、作業は急ピッチで進められている。
ブランディーヌはその手伝いをしていたわけだが、当然ながら彼女の得意分野はそっちではない。予想以上に汗だくになり、へばりそうになって手近な土の山に手をついたらそれが崩れて頭から土を被ったという。エイブラムもさすがに、今日はもういいから風呂へ入ってきなさいと言ったらしい。
「一応浄化は使ったんですけど、ミミズがいる土に半分埋まりましたからねえ。ああ、まだ口の中に土の味がするような気がしますよ」
ブランディーヌは顔をしかめてそう言った。畑から持ってきた比較的柔らかい表土の山だったので幸い怪我はなかったそうだが、汗をかいたところへミミズ入りの土ではさぞかし気持ち悪かっただろうなと、さすがにマリコも少々気の毒になった。
「でも、おかげでいい事もありました」
「いい事とは?」
「アド……あっ、いえ」
「アドレー? 彼奴がどうかなされたか」
「いえいえ。大した事ではありませんよ……」
ミランダに聞き返されたブランディーヌが口ごもったことで、いい事が何であるかマリコには分かってしまった。恐らく男湯にアドレーたちが入っているということだろう。何か思い巡らせているに違いない。
だが、今ブランディーヌの前にいるのはミランダである。何と言い表すのが正しいのかマリコにも未だによく分からないが、ミランダとアドレーの関係をブランディーヌも聞いたのだろう。そのミランダに向かってアドレーを妄想のネタにしているとはさすがに言わなかった。
「ふむ。まあ、悪い事ばかりでなかったのなら幸いであろう」
目を泳がせるブランディーヌをさして気にする風でもなく頷いたミランダは、何かに気付いたように「あ」と声を上げた。再びザバリと音を立てて立ち上がると壁越しに呼びかける。
「アドレー、私はもう上がるぞ。そちらはどうだ」
すぐに了承の返事があり、二、三やりとりしたミランダはマリコたちを振り返った。
「彼奴と勝負せねばならん。マリコ殿はどうなされる。貴殿らは?」
「もちろん、私も上がります」
「え!? 皆行っちゃうんですか!? あっちも!?」
「すみません。まだやることがありまして」
驚いているブランディーヌには悪いが、ここで彼女と取り残されるのはいろいろと危険である。マリコはシーナたちも促して湯船から上がった。
後には、まだ髪を洗い終えたばかりのブランディーヌが一人ぽつねんと残された。
◇
「おっ、来たようじゃの」
夜になり、仕事が引けたマリコが女神の部屋に現れると早速女神の声が聞こえた。マリコがそちらに目を向けると女神がベッドの上で胡坐をかいて手招きしている。そちらに向かいながら部屋の中を見回すが、特にゴミも見当たらずロープに洗濯物もない。女神も大分家事に慣れたようである。
「なんじゃ、不景気な顔をしておるの」
マリコはそれには答えず、女神に背を向けたままボスンとベッドの端に腰を下ろした。実際少々機嫌が悪い。風呂から上がった後、ミランダたちの腕相撲を見届けて仕事に戻ったのだが、来る人来る人皆に「心配しなくても明日には無事に帰ってくるよ」みたいな声を掛けられたのである。バルトたちの無事を願っていることは間違いないのだが、向けられる生暖かい視線が何とも居心地が悪かった。
その上に何故か湧き起こる若者に戻ったかのような肉体的な興味である。油断しているとつい誰かのスカートの裾を目で追っていたりする。気が付く度にミランダのあるいはアドレーたちの猫耳を愛でることを考えて気を紛らわせていたのだった。
「何か用があるんじゃろうに今日はやけに口が重いの」
何も言わないマリコに女神が言う。
「ふむ、そんな端っこにおらずに靴を脱いでこっちへ来るのじゃ。口の滑りが良くなる薬をやろう」
カツンという音にマリコが振り返ると、いつの間に取り出したのかベッドの上に置かれたトレイにウイスキーの壜が置かれたところだった。それを目にしたマリコが口をとがらせる。
「私が買ってきたやつじゃないですか」
「いかにもそうじゃ。言ってみればおぬしからの供え物じゃな。じゃからおぬしが飲んでも何の問題もあるまいて」
どうだという顔した女神はさらに焼き物の酒杯を二つ取り出して並べる。マリコは無言でブーツを足から引き抜くとベッドに上がった。こういう時に横座りになるのはいつの間にか慣れてしまっている。
「ほれ」
女神が壜を持ち上げたのでマリコは酒杯を取ってそちらに突き出す。トトトという音と共にふわりと香りが広がった。受けた酒杯を一旦置いて注ぎ返す。マリコもそれをやらないほど無遠慮にはなれなかった。
「何にかは分からんが、乾杯」
「……乾杯」
一柱と一人は一気に酒杯を傾けた。大した量は入っていないが生のウイスキーである。わずかに喉を焼きながら流れ落ちたそれは腹に届くとそこでも熱を発し始める。マリコはふうと息を吐いた。
「さすが呑み助じゃの」
「誰が呑み助ですか」
女神はふふんと鼻で笑うとまた壜を持ち上げる。マリコはわずかに首を傾けた。さすがにここで酔い潰れては困るのである。
「何、いざとなれば帰る前にわしが状態回復を掛けてやるわ。遠慮せずともよい」
マリコが再び酒杯を取ると、女神は「ただし」と付け加えた。上げかけたマリコの腕が止まる。
「もし飲み尽くしたら、その時には次のを頼むのじゃ」
胡坐のままふんぞり返ってそう言う女神に向かって、マリコは酒杯を突き出した。
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