237 八つ当たり 2
戦闘です。残酷描写注意。
しばらく進んで低い丘を登ったところで次の獲物が見つかった。今回発見したのはミランダで、その耳で草を掻き分ける音を聞きつけたのである。程なくミランダが示した方向に、マリコにも最早お馴染みになりつつある姿が丘の下の木々の間からチラチラと見え始めた。フゴフゴと鼻をあちこちに向けており、まだマリコたちには気付いていない様子である。
「じゃあ、いってきます」
「え!? マリコさん、弓は……ってどこ行くんですか!?」
マリーンが何か言いかけたがマリコは既に駆け出した後だった。しかもマリコが向かったのは野豚が見えている方向よりずっと右手である。マリーンは驚いたがミランダにとってその意図は明らかだった。マリコは風上側へ回り込もうとしているのである。ミランダは「まあ待て」とマリーンの肩を叩いた。
「マリコ殿なら一人で対しても問題ない。そら、あそこを見てみよ」
ミランダがそっと腕を上げて野豚がいるところより少し右を指差した。そこは丘の麓で、木々が途切れて少し拓けた場所がある。マリコが走っていったのはそこからさらに右側である。シーナとマリーンの目がそちらに向くのを待ってミランダは話を続ける。
「今、風はどちらから吹いている? マリコ殿が向かったのはどちらだ?」
それを聞いたマリーンの顔に理解の色が浮かぶ。野豚は目より鼻が利くのだ。
「彼奴に気付かせてあの辺りに誘い出すつもりであろう。あそこなら戦い易いし、ここからでもよく見える」
野豚を見つけてからのわずかな間にマリコ自身と見る者の両方の都合を考えて動いたのかと、マリーンは感心した。
◇
森とは言っても木だけが生えているわけではない。野豚の住処なので獣道のようになっているところも結構あるが、地面の大部分は草に覆われている。マリコはそれをかき分けて進むのではなく、木々の間を飛ぶように移動していた。木の幹や岩を足掛りにしてほとんど地面に足を着けずにヒョイヒョイと進んで行く。マリコの身体であればこそできる芸当だった。
元いた位置から回りこむ形になったために、野豚の姿は時折木々に隠れてマリコからは見えなくなる。しかし、それがいる方向は分かっており、そちらに気配のようなものは感じるので完全に見失ってしまうことはなかった。
耳元で風が唸る。濃い緑の匂いのする空気を思い切り吸い込んだことで、マリコはほんの少し冷静さを取り戻した。心の中のモヤモヤのせいで熱くなりかかっていたのである。マリコの進路はそのモヤモヤを振り払うように大きく弧を描いて、野豚が待つ方へと向かっていく。
やがて木々が少しまばらになってきた。その向こうに見え始めた広場のようなところが目的の場所である。そのさらに奥に野豚の姿が再びチラリと見えたとマリコが思った瞬間、野豚がブゴオと声を上げた。風は後ろから。向こうもマリコの匂いに気付いたようである。
それぞれが森を抜けて広場の両側に達したところで、マリコは雄叫びを上げながら突進してくる野豚の全身を視界にとらえた。立ち上がればマリコと同じくらいの高さであろう茶色い毛に覆われた身体に、ゴリラのように発達した腕とイノシシそっくりの顔。その顔には生殖という本能とそれに対する飢えのようなものが浮かんでいる。少なくともマリコにはそう思えた。
群れを追われて相手がいないが故に満たされず、その欲望を人のメスという本来なら意味の無い相手に向けざるを得ない、追い詰められた存在。それがマリコが教わったはぐれ野豚についての知識である。それを思い出した時、マリコは慄然とした。自分の中で別の自分が叫び声を上げる。
目の前の野豚に自分は何をやろうとしていたのか。全く別のところで溜まったストレスを野豚にぶつけようとしていたのではなかったか。なます切りにでもしてやれば少しは鬱憤晴らしになると思ってはいなかったか。それでは目の前でフゴフゴと荒い息を吐いている野豚と変わらないではないか。
(そんなのただの八つ当たりじゃないですか)
そんなものをシーナたちに見せるつもりだったのか。マリコの頭は急速に冷えた。野豚はもうすぐそこまで近付いている。では何故この野豚を殺さねばならないのか。
――食べて自分たちが生きるため。
答えはすぐに返ってきた。始めから分かっていたことである。そのためにすべきことはと足を止めて考えるマリコを捕らえるべく、眼前に迫った野豚は右腕を振りかぶった。それが相手を壊してしまうかもしれない威力を秘めていることなど知りもしない。相手が同族であればそんなことにはならないからだ。一方のマリコはまだ小剣を抜いてさえいない。
◇
「マリコ殿!」
駆け寄る野豚を前に棒立ちになったように見えるマリコに、シーナたちと一緒に見守っていたミランダは思わず声を上げる。そこからの数秒間はミランダにとってとても長い時間に引き延ばされたように感じられた。
まず、そのまま無策に野豚の拳を受けるかに見えたマリコの左腕がしなるように動いた。内から外に裏拳の要領で肘から先を回転させるように振り抜かれた左腕が、野豚の右腕を弾き返す。盾で受け流したのではない。正面から打ち返したのである。
拳を腕ごと打ち返された野豚は驚いた様子を見せながらも、身体を右に回されかけたその勢いで今度は左腕を振るった。しかし、それもマリコに届く前に今度は上に向かって弾かれる。マリコの右脚が高く上がっており、それで蹴り上げたのだとミランダにも分かった。
両腕を右と上に跳ね返された野豚はもちろんまっすぐ立ってはいられない。上体を仰け反らせ顔が天を仰ぐ。そこへ、跳ね上げた脚を振り下ろす勢いに乗せた小剣の抜き打ちが走った。マリコはそのまま右側へ飛び、仰け反った野豚が後ろへと倒れていく。
鮮やかな噴水で自らを紅く染めながら。
野豚の倒れる音がかすかに聞こえ、ようやく時間がいつものように流れ始めた。瞬きと呼吸を忘れていたミランダは、目を閉じて大きく息を吐いた。
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