196 酒の勢い 9
マリコは温もりに包まれていた。
その穏やかな暖かさの中にあって唯一、下腹部だけが違和感を訴えていた。何かを詰め込まれたような圧迫感とわずかな痛み。温もりに蕩けて境界が曖昧になったような身体の中で、そこだけが緊張で力み固くなっているのが分かる。この力を抜いてしまえば楽になれる。そう感じたマリコは身体の求めるところに従ってそれを解き放とうとして……。
(やばっ!)
パチリと目を開いた。白い魔法の光に淡く照らされた木の天井をにらみながら、緩みかけた下腹に急いで力を入れ直す。圧迫感と痛みが再び少し強くなったが今はそれどころではない。焦燥感で一気に早鐘を打ち始めた己の鼓動を耳元に感じながら黙って身体の状態を確認し、手遅れになっていなかったことに安堵の息を吐いた。
(ふう、何とか間に合った)
心地よい眠りの淵からマリコの意識を無理矢理引き上げた犯人。それは容量の限界に近付いた器官が発した警告だったのだ。もしあのまま力を抜き切って生理的欲求に応じてしまっていたらどうなっていたことか。いいトシをしてシーツに特大の地図を描いたりしたら、さぞかし情けない思いをすることになっただろう。
改めて膝に力を込めることで解放を求める訴えをなんとか宥めながらそこまで考えたところで、マリコは自分が自身とは別の温もりに寄り添っていることに気が付いた。ふとそちらに顔を向けると、目に飛び込んできたのは鮮やかな金色。
「う……むぐっ」
思わずうわあと叫びそうになった口をあわてて手で押さえた。同時に、驚いて緩みそうになった内股をキュッと締める。目の前には短めの金髪頭のバルトの顔。しかし、その目は緩く閉じられ、鼻からはすうすうと規則的に息が漏れている。マリコは口を押さえたまま、息を殺してじっとその顔を見守った。
そのまましばらく待ったがバルトが目覚める気配はない。しかし、マリコがそっと身体を起こそうとした途端、バルトがううっと唸った。ギョッとして固まるマリコをよそに、バルトの眉間にはシワが刻まれ、マリコから見て向こう側の手がバッと持ち上がる。広げられた手の平が何かを求めるように中空を彷徨い、バルトの身体はベッドがきしむほどブルブルと震えた。
だがそれも束の間のことで、バルトの顔はいささか不自然なほど急速に落ち着きを取り戻し上がっていた腕もゆっくりと下ろされる。再び穏やかな寝息を立て始めたバルトにほっと息を吐き出したマリコは今度こそそろそろと身体を起こした。すると、その肢体を覆っていたシーツがパサリと滑り落ち、むき出しの肩が露になる。ギョッとしたマリコが視線を下げると幸いな事に裸というわけではなく、メイド服の下に着ていたはずのキャミソール姿になっていた。
(え、服、服は!?)
急いで胸元と腰に手をやってみれば、そこには確かな下着の感触がある。少しホッとしたマリコは二の腕にずり落ちていた肩紐を引き上げながら辺りを見回した。ベッドが二つ据えられ、壁際に荷物が並ぶ広めの部屋。ここはシーツ交換に来た覚えのあるバルトの部屋だった。
メイド服やエプロンは見当たらないものの、もう一つのベッドの傍らに自分のブーツが転がっている。その普段は使われていないはずのベッドの上掛けが捲れているのを目にして、マリコは自分が何をやらかしたのかを思い出した。
◇
マリコはバルトを引っ張って階段を上がったところで自分を中心に防音を使った。防音は効果範囲の内外の音を遮断する魔法であり、これで同じ範囲内にいる二人の声は外に漏れないことになる。ここでようやくマリコはバルトの手を離した。
「何なんだ、一体」
「ですから、バルトさんにお願いがあるんです。ここでというわけにもいきませんから、とりあえずお部屋にお邪魔してもいいですか?」
「え、あ、ああ」
握り締められていた右手をブルブルさせていたバルトは、マリコの言葉に焦ったように頷いた。両手を胸の前で組み合わせ、赤らんだ――もちろん酒で――顔でわずかに見上げてくるマリコのお願いを無下に断るなどできるはずがないのである。
こうしてバルトの部屋にふらふらと乗り込んだマリコは、ここで改めて部屋全体に対して防音を使った。この時マリコが効果範囲を「室内の空間」としたために床が発する音だけが階下に聞こえてしまったのだが、これはマリコが知る由もない。
「それで何の話なんだ。酔って男の部屋に押しかけるとか何かあっても文句は言えない……」
部屋の中をうろうろと歩いた末にマリコを振り返ったバルトの怒ったような言葉は途中で途切れた。トコトコと付いてきたマリコが目の前に立ったかと思うとバルトの胸に手を押し当てたからである。
「え、おい」
「受け入れて、くださいね」
「え?」
「鎮静!」
「ええ!?」
触れられた手、息の掛かる距離、柔らかく潤んだ――実際は酔って眠たい――瞳。マリコの背中に腕を回すかどうか迷ったバルトにマリコの魔法が打ち込まれた。鎮静は心を落ち着かせる魔法である。ゲームでは混乱や恐慌といった精神の状態異常を解消するために用いられていた、いわば肉体の状態異常を治す状態回復の精神版である。
渾身の魔力を込めて放たれた鎮静は、表面は取り繕いつつも内部ではいろいろと渦巻いていたバルトの煩悩をものの見事に霧散させた。バルトの顔から戸惑いや驚きや情欲が抜け落ち、悟りを開いた高僧のごとき表情になる。ただし、鎮静では身体の状態異常は治らないのでアルコールは抜けない。今のバルトは落ち着いた酔っ払いである。
「落ち着きましたか?」
「ああ」
「じゃあ、とりあえず座ってください」
「ああ」
バルトがそっと自分のベッドに腰掛けるのを見届けたマリコは、その前を右に左にとふらふら歩きながら話し始めた。さっきの腕相撲大会のような状態に困ったこと。また同じようなことが起きるのではと危惧していること。バルトは頷きながら聞いている。
「でも、女神様の言葉を思い出したんです」
マリコが思い出した女神の言葉。そこには赤い大文字で、
――カモフラージュじゃ!
と書いてあったのだ。マリコは天啓を得たと思った。偽装すればいいのだ。
そもそもマリコがフリーだと思われているから皆そういう気になるのだ。なら特定の相手がいるように見せかけてやればいいのである。男の感覚で言えば、男連れの女の子には普通は声を掛けようとはしないものなのだ。だが、誰でもいいというわけではない。マリコにそれなりの好意を持っていて、かつ少々の事なら跳ね除けられる実力もなければならない。そこでバルトなのだとマリコは語る。
無茶苦茶である。そもそもバルトの都合や心情が一切考慮されていない。身勝手極まりない、酔っ払いの戯言であった。
しかし、悟りきった表情でそれを聞いた後、目を閉じてしばらく何事かを考えていたバルトは目を開くと是と答えた。バルトが何を思ったかは分からない。それでもここに約束は交わされた。
「ふうう」
一応の話が付き、マリコは深く息を吐いた。バルトを三階まで引っ張ったせいで余計に酔いが回り、眠気に耐えられなくなってきたのである。考えてみれば、オオカミと戦った後すぐに女神の許を訪れ、碌に休んでいないのだ。マリコの目が空のベッドに向けられた。普段は使っていないとは言え、いつ使われてもいいようにシーツ類が定期的に取り替えられているのは知っている。マリコはそこへバタリと倒れこんだ。さすがにベッドが大きくきしむ。
「眠い……。寝ます」
「おいおい、大丈夫なのか」
その様子にさすがにバルトが心配そうな声を上げる。だが、マリコはその言葉の意味を取り違えた。
「ああ、靴を、脱がないと……。服もか。バルトさん、向こう向いててください」
「分かった」
賢者モードに強制的に突入させられているバルトは素直に従う。マリコはブーツを足から引き抜くとベッドの下へポイポイと放り、ヘッドドレス、エプロン、メイド服、パニエと次々脱いではアイテムボックスに押し込んでいった。シーツに包まって意識が落ちる直前、チラリと目を向けるとバルトも自分のベッドに潜り込むところだった。
◇
(うわぁあああ)
自分のやったことを思い出し、マリコは頭を抱えて声に出さずに叫んだ。その上バルトと同衾である。こちらは覚えていないものの大体見当は付いた。自分の部屋での配置に置き換えると、マリコのベッドがあるのは今バルトが寝ている位置なのだ。恐らくベッドからずり落ちるか何かして、いつもの方向へ戻ったのだろう。バルトにひっついて気分良く眠っていたという事実もマリコに追い討ちをかける。
(うおぉおおお)
しばらく一人身悶えていたマリコだったが、身体の方のタイムリミットが近付いていた。この上ここで粗相するなど耐えられない。マリコは急いで衣服を身に付けると、足音を忍ばせて扉に向った。
こういう話だと何故か長めに(笑)。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。