195 酒の勢い 8
ざわめきを背に、ゴツリゴツリとブーツで床板を鳴らしながら進んだバルトは残り数人となった列の最後尾に並ぶ。マリコは一度そちらにちらりと目を向けはしたものの、ちょっと片方の眉を上げただけで特に何を言うこともなく目の前の対戦者を下し続けていった。
やがてバルトの前からは列が消え、マリコはテーブルを挟んでバルトと向き合う。その後ろに続いて並ぶ者はおらず、バルトは最後の挑戦者となった。
「マリコ、これが最後らしいけど始めてもいいかい?」
問いかけるタリアに、マリコは一旦身体を起こして真っ直ぐ立つと肘を曲げて右肩をグルグルと回した。次いで具合を確かめるように手首も何度か回した後、拳を数回開いたり閉じたりさせる。
「……はい。大丈夫、です」
最後にぐっと拳を握りしめたマリコは、頬に朱の差した顔にわずかな笑みを浮かべて頷いた。多少の疲れを感じないでもないが大した事はない。マリコは再び上体を倒した。向かい合うバルトも同じく身体を傾けてテーブルに肘を乗せる。手を握り合うとバルトはうっと息を詰めて視線を彷徨わせた後、マリコの顔を見た。
「大分酔っているようだが大丈夫なのか?」
「そちらこそ。顔、赤いですよ」
「ど、どうということはない」
バルトはマリコの手に触れた瞬間に耳の後ろ辺りが急速に熱を帯びるのを感じた。おそらく顔の赤味が増しただろうという自覚はあるが、いい歳をしてそんなことになったなどと認めるわけにはいかない。分かっていますよとでも言いたげな笑みを浮かべるマリコが微妙に腹立たしい。
「どっちが勝つと思う?」
「そりゃマリコさんだろう」
「いや、もう十何人も相手にしてるんだ。大分疲れてるんじゃないか? ほら、身体が揺れてる」
「ありゃ酔ってるだけじゃないか? 結構前からあんな感じだったぞ」
「じゃあやっぱりこれまで通り……」
ギャラリーから漏れてくるそんな声も耳に入り、バルトは別の意味でも腹立たしくなってきた。
(勝手な事を。ええい、こうなったら敵わぬまでも始めから全力で行ってやる)
「準備はいいかい?」
じきにタリアの声が上がった。二人はそれぞれ左手でテーブルの端をつかみ、握り合った拳に力を込める。
「用意……始め!」
「ふんっ!」
「んんっ!」
半袖の先からむき出しのマリコの腕と腕まくりをしたバルトの腕がぐんと膨らむ。自らが腕相撲は筋力だけが絶対じゃないなどと言っていたことなどすっかり置き去りにして、バルトは真っ向から勝負を挑んだ。
「「「「ああっ!」」」」
周囲から悲鳴のような声が上がった。タイミングを計り損ねたのか、マリコが一気に半分ほど押し込まれたのである。だがまだまだ半分、しかもこれは先のミランダ戦と同じパターンなのだ。マリコはここから巻き返す、誰もがそう思った。
「ふうんっ!」
「くっ!」
しかし、マリコの腕は戻らなかった。眉根にシワを寄せた苦しそうな表情のまま、マリコはじわじわと押し込まれていく。そしてそのまま、マリコの手の甲はゆっくりと穏やかにテーブルへと押し付けられた。
「やめっ! 勝者、バルト」
「えっ、いや今のは……」
「「「「うおおおお!」」」」
タリアの決着宣言に対して何かを言いかけたバルトの声は、馬鹿なとかまさかとかいうつぶやきも混ざった声の奔流に一瞬にしてかき消された。その声をかき分けるかのように、マリコがふらりと立ち上がる。
「いやあ、負けてしまいました」
「いやあ、じゃないだろう。何だ今のは」
対戦したバルトにしか分からないだろう。今の勝負の途中からマリコの腕に掛かる力が明らかに弱くなったような気がするのだ。
「どうも飲みすぎてしまったようです」
マリコはそう言うと右手を自分の顔に当ててため息をついた。その仕草は見ようによっては欠伸をしたようにも見え、実際潤んだようになったマリコの目には眠気が見て取れる。
「では、今の勝負は……」
「それでも負けは負けです。ありがとうございました」
マリコはバルトのセリフを最後まで言わせずにそう言うと、バルトに向って右手を差し出した。思い返してみれば挨拶らしい挨拶もしていない。そう思ったバルトはその手を取った。その途端、マリコの笑みと共にバルトの手が力強く握りしめられる。
「お、おい……」
「時にバルトさん。今、部屋の鍵はお持ちですか?」
「え? あ、ああ、持っている、が」
唐突なマリコの質問に、バルトは意図がつかめないままつい正直に答えた。宿に帰ってきてから一度は部屋に戻ったので鍵は持ったままなのだ。
「よかった。じゃあ行きましょう」
バルトの答えを聞いたマリコはフフと笑うと身を翻して足を踏み出した。バルトの手を握ったままなので、当然バルトもそちらに引っ張られる。マリコとの間にあったテーブルを辛うじて避けるとマリコに引かれるままに歩を進めた。
「いや、行くってどこへだ」
「もちろんバルトさんの部屋ですよ」
それを聞いたバルトはあわてて足を止めた。繋いだ手がピンと張ってマリコも一緒に止まる。
「自分が何を言っているのか分かってるのか? 酔ってるだろう」
「酔ってなんかいませんよお。勝ったバルトさんにはお話があるんです。さ、分かったら行きますよ」
マリコは再び歩き始めた。バルトがその手を振り払おうにも、万力ではさまれたかのようにびくともしない。そのまま階段の方へと引きずるように連れて行かれた。バルトの部屋は三階にある。マリコはバルトの手を引いたまま階段を上ろうとし、踏み止まろうとしたバルトは力負けしてガコンガコンと賑やかな足音をたてながらそれに続いた。
呆気に取られて半ば固まってしまった一同は、二人の姿が上階へと消えてからようやく再起動した。
「なんじゃ、ありゃ」
「シッ!」
声を上げた男を制止した別の男は黙って上を指差した。声こそもう聞こえないが、ゴツンゴツン、カツンカツンと二人分の足音がかすかに聞こえていた。それも遠ざかってほとんど聞こえなくなり、固まっていた時間が再び動き出そうとした時、食堂の真上辺りで再び足音が聞こえ始めた。カウンターに向って左側の奥付近である。
「そうか。バルト殿の部屋はその真上か」
「「「「っ!!」」」」
ミランダのつぶやきに緊張が走る。食堂は二階部分が吹き抜けになっており、天井に見えるのは三階の床板なのだ。息を殺して耳をそばだてる男たち。
パタンと扉が閉まる音がした後、しばらくはゴツゴツカツカツと足音。一度ゴツゴツがほぼ止まりカツカツだけになったかと思うと、ギシリと重い家具がきしむ音がする。
少し間を置いて今度は断続的にゴツゴツ。それが止んだ後は、時折ギシリギシリというきしみ音だけが聞こえてくるようになった。
食堂に男たちと何故かミランダの悲痛な声が響いた。
表現力の乏しさをなんとかしたいです(汗)。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。