194 酒の勢い 7
時間は少々遡る。
バルトはザットによる電撃結婚申し込みを目にした驚きで凝固した。もちろん、男たちの間でマリコの人気が高いことには気付いていたものの、今の段階で結婚を申し込む者が出てくるとは思っていなかったのである。
もし、あの容姿で料理が上手く酒が飲めるというところで留まっていたなら、今頃マリコは全方位からの猛攻に曝されてされていただろう。しかし、その後マリコが周囲に見せつけた能力は、気軽にちょっかいを出す相手としては高過ぎたのである。
ある者たちはマリコの隣に並ぶに足る力を手に入れるべく己を鍛え始め、またある者たちは最早偶像を崇め奉る信者と化して一歩退いた、というのが男たちの現状についてのバルトの見立てだった。それが何故今日になってこのような事態になったのか。
「とりあえず、結婚の話自体はうやむやになるみたいだよ。ミランダちゃんが乱入してね。ほら、腕相撲勝負だってさ」
トルステンとカリーネに活を入れられてようやく再起動したバルトに、トルステンはのんびりした口調で言う。見れば、カウンター前のテーブルがいくつかどけられてスペースが作られていく。マリコはと視線を動かせば、その騒ぎに少し呆れた顔を向けながらジョッキを傾けていた。
「……で、行くの?」
「誰が行くか!」
小首を傾げて聞いてくるトルステンにバルトは半ば反射的に答えた。そんな宴席の出し物みたいなところで真面目な話ができるかと思う。大男が小首を傾げても可愛くないわ! というセリフは口にしなかった。そういう仕草も案外似合ってしまうところがトルステンなのである。バルトには真似できそうにもない。トルステンをにらみ返したバルトはジョッキの中身をぐいっと空けるとテーブルにタンと置いた。
やがて勝負が始まった。何故か始めに出てきたミランダとの試合には少しヒヤリとする場面があったものの、マリコは順調に勝ち続けている。目を細めてそれを見ていたバルトは試合が進むと共に飲むピッチが早まっていった。ジョッキを三杯ほど空にした後、ウイスキーへと切り替わり、チビチビとやっていたのが段々とグビグビになっていく。それに合わせて目はさらに細まり、眉間にシワが刻まれていった。
◇
そして現在、瞬間的に力を込める、汗が噴き出る、冷却材投入、というサイクルを繰り返していたマリコだったがさすがにお腹が張り始め、途中からはこちらもウイスキーをロックでチビチビやりながら余興を続けている。続けながらマリコは少々不安を感じ始めていた。
勝ち負けに関しては今の所ミランダを越えるような脅威は現れていなかった。だが、さすがに最前線で暮らす男であるだけのことはあって、ザットも含めて全く気を抜いていて勝てるほど弱くもない。だが問題はそこではなかった。アドレーとの勝負についてミランダが愚痴をこぼしていたのを思い出したのである。
――回数制限を付けてやればよかった
改めて考えてみると今回のこれも回数制限など設けていない。つまり、後日また同じような騒ぎが起きる可能性に気付いたのである。否、この調子だと間違いなく起きるだろう。
マリコは自分に向けられる好意に気付いていた。自意識過剰などではない。何せ今のマリコの容姿はいわば完全版真理子の具現である。惚気は入っているかもしれないが「俺の嫁がモテないわけがない」とでもいうのが正直なところだった。もし目の前に完全版真理子がいたなら何としても守ろうとしただろう。ただ、問題なのは今は自分自身がそのマリコだということである。
大部分が終わりつつある今になって条件を追加するのはさすがに公平さに欠ける気がする。何とか次がないようにする手立てはないものかとマリコはウイスキーを投入した頭で考えた。
そして、天啓を得た。
◇
自分でも何故かよく分からなかったが、試合が消化されていくにつれてバルトの眉間のシワは深くなり、あごには梅干が浮かび始めた。飲むペースも上がっている。マリコが負ける様子はない。にも係わらず、どうして自分はどんどん不機嫌になっていくのか。
「あたしも行ってこようかな」
残る挑戦者がわずかになりギャラリーの視線が集まり始めた頃、バルトが密かに唸っていると、唐突にミカエラの声がした。何を言い出すのかと思わずその顔に目を向ける。
「ミカちゃん、何を言い出すの」
同じことを思ったらしいカリーネが問い質した。こちらもそれなりに酒が入ったミカエラは少し赤らんだ顔をカウンターに向ける。
「あたしも挑戦してみたくなったって言うのかな。マリコさんとどの位差があるんだろうって。それに、見てよあれ。もう結婚とかどっか行っちゃってるよ? あれじゃあアイドルの握手会だって」
「「「あー」」」
ミカエラの言い様にバルトを除く三人が納得の声を上げる。
営業用かもしれないが、ともかく笑みを浮かべたマリコが挑戦者を迎え、手を握り合って一勝負。すぐに結果は出て、負けた相手はそれでも満足そうな様子を見せながら、大抵はジョッキを受け取って今度はギャラリーに混ざるか席へと戻っていく。確かにそう言われればそんな風に見えなくもない。そして、そう思ったことでバルトは気が付いた。
「サンちゃんもどう?」
「うーん」
「待て」
バルトは話を進めようとするミカエラを止めた。
「俺が行く」
手の中のカップに残ったウイスキーを飲み干すと、ゆっくりと立ち上がる。食堂内に「おお」という小さな声がさざ波のように広がった。
「結局行くの?」
「今の俺は純粋な筋力ではまだ彼女に及ばない。だが腕相撲は筋力だけが絶対じゃないはずだ。それを確かめてくる。仮に勝てなくても今後の参考にはなる」
トルステンの問いに直接答えず、バルトはそういい置いてカウンターへと向っていく。その背中を見送ったトルステンは、バルトがある程度離れるのを待って残る三人を振り返った。
「マリコさんがよその男と手を取り合うのを黙って見ていられなくなったって素直に言えばいいのにね?」
小声でぶっちゃけるトルステンに三人は微妙な笑みを返した。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。