193 酒の勢い 6
激闘の末と言っていいのかどうかはともかく、マリコはミランダを下した。しかし、本番はこれからなのである。決戦場の向こうには、ミランダの轟沈を目にしてもなお闘志を燃やす熱き男たちが列を成して待っていた。
「ではよろしくお願いします」
そう言ってマリコの前に立ったのはザットだった。言いだしっぺの優遇措置なのか、くじ運の強さなのか、はたまたじゃんけんに勝ったのか。その辺りの経緯を見ていないマリコには知る由もない。ともあれ、員数外のミランダを除いた真の先頭バッターは勇者ザットであるらしい。
「あ、ちょっと待ってください。ふう、暑……」
マリコは早速構えようとするザットを手を上げて止めると、手拭いを取り出して額に押し当てた。ミランダとの一戦でアルコールの入った身体に力を込めたために一気に汗が噴き出したのである。冷却材を追加投入したもののこれは燃料でもあるので、喉こそ潤ったものの汗を押さえるのにどれだけ効果を期待していいのかについては甚だ疑問だった。
(今は勤務時間外ということで許してもらうことにしようか)
マリコは襟元を彩る赤いリボンを解いてしゅるりと引き抜いた。それを適当に束ねて仕舞った後、普段はピッチリ上まで全部留めているメイド服の襟のボタンを二つほどはずす。
メイドスキーを自認するマリコにはマリコなりのメイドさんに対するこだわりというものがあった。中身がなんちゃってメイドであるのはもう仕方がないにしても、メイド服を纏うからにはせめて見た目くらいはきっちりしておきたかったのである。
だが、襟周りが汗を吸い、そこに結ばれたリボンも湿気で力なく垂れ下がりつつある。正直言ってマリコは少々気持ち悪かった。もちろん仕事中であるならそんなことは気にしていられない。かまどの前に立っている時などしょっちゅう汗だくなのである。
しかし今はそうではない。男たちがどこまで真剣であるかどうかはともかく、宿の女性陣の態度からすると今の状態はほとんど余興である。仕事もしなくていいと言われていることもあり、マリコは状況に甘えさせてもらうことにしたのだった。
襟元を開いた後、メイド服の胸元をエプロンごとつかんで何度かパタパタと引っ張ってそこに空気を送り込んだマリコは待たせていたザットに向き直った。マリコにしてみれば何ということはない暑さへの対処である。今のマリコは元々ミニのメイド服姿なので腕も脚もそれなりに見えている。襟を開いたくらいで何が変わるとも思えなかった。
「お待たせしました」
「……」
「ええと、ザットさん?」
しかし、それを目の前で見てしまったザットの方はというと、とてもではないが無心ではいられなかった。特にデコルテが露わになっているわけでも谷間がのぞいているわけでもなく、普段は高めの襟で隠されていて見えない首が見える。ただそれだけならおそらく何ということはなかっただろう。
だが、その首を横切る物があった。チョーカーである。襟元からのぞく白い喉に巻き付いた黒のチョーカー。光と闇の如きコントラストを描くそれは何故かマリコが既に何者かの所有物であるかのような錯覚を起こさせ、やや酩酊したマリコの表情と相まってある種の背徳感を醸し出していた。ザットはそれがお守りだとすぐに気付いたが、そこに目を引きつけられるのを止める事ができない。
「はい、構えて」
「……え、あ、はい」
タリアの声にようやく我に返ったザットがテーブルに肘を突くと、それに合わせてマリコも肘を突いて構える。
「うぉ」
その姿にザットは思わず漏れそうになった声を何とか小さく抑えた。真っ直ぐ正面を向いたマリコのメイド服とエプロンに覆われていてなおその存在を主張する連山の片方が、肘を突いた際に横から二の腕に押されて形を変えるのを目撃してしまったのである。
そのまま右手同士を握り合う。ザットが思っていたよりその拳は小さく、そして柔らかかった。自分の拳の方が大きく硬い。剣を、鎌を、包丁を振るう姿を常に見せていたというのに、何故この手はこんなにも柔らかいのか。手でこれならついさっき目の前で腕を押し付けられて変形したモノの柔らかさはいかばかりか。
「いいかい。用意……始め!」
「はっ!?」
思いを馳せているうちに開始の声が掛かり、ザットはあわてて意識を腕に戻して身体に力を込める。しかし、特に力んでいるようにも見えないマリコの腕は微動だにしなかった。驚いて顔を上げるとマリコの表情はいつもの柔らかさのままである。
「ふっ! くっ!」
ザットが何度気合を入れて力を込めても、マリコの腕を倒すどころか傾けることさえできなかった。せいぜい拳の先が少し揺れた程度である。やがてマリコの顔が動いて潤んだように揺れる――実際には酔いの回った――瞳がザットに向けられた。
「ではそろそろ、行きますね」
「え!? あ、ぐっ!」
ザットの腕など始めから無かったかのように、動き始めたマリコの腕はビールのジョッキを傾けるような軽やかさで倒された。自分の手が傾いでいき、手の甲がテーブルに接吻して軽い音を立てるのを聞きながらザットは見た。倒れていく腕の動きにつれて、二つの膨らみが波打つように横に流れるのを。そして腕が止まった反動で跳ね返って縦に弾むのを。
「やめっ! 勝者、マリコ」
「「「「おおお」」」」
決着を告げる声と歓声を聞いてザットは身体を起こした。同じく立ち上がったマリコに一礼するとそのまま無言で決戦場から離れていく。隣に設けられた臨時カウンターで、いかがと勧められたジョッキを受け取って――こちらはマリコとは違って自腹である――元の自分の席へと戻った。
「えらくあっさりやられてたけど、マリコさんやっぱり強かったのか?」
「ああ、あの人は特別だ。戦ってみれば、いや戦ってみないと分からないよ」
早速声を掛けてくる友人に頷きを返す。その思いがけない清々しさに、友人の方が目を瞬かせた。ザットは手にしたジョッキを置くと思い出すように右拳を握る。結果は見えていた挑戦ではあったが、挑戦したこと自体には一片の悔いもなかった。
(今日のこの思い出だけで、自分はあと十年は戦える)
ザットは握った拳を見つめながら、その思い出を反芻した。
◇
その後もマリコは続々と勝利を量産していった。負けた方の反応はというと、ザットのようにあっさりと引き下がる者、再戦を宣言する者と様々である。共通するのは、皆ジョッキを手にして満足そうに自席へと戻っていくということくらいだろうか。
こっそりと列に混ざっていた猫耳四人組――もちろんアドレー以外――も例外ではない。もっとも彼らの場合、参戦の動機はミランダと似たり寄ったりなのかも知れない。
やがて勇者の列も残り少なくなり騒ぎの終わりが見え始めた頃、一人の男になんとなく疑問と期待の視線が集まり始めた。相手がマリコであるなら一番に名乗り出てもよさそうなものを未だ席を立つ気配を見せず、仲間たちとただ黙々と杯を干しているその男。
バルトランド、通称バルトである。
ビールの売り上げがすごいことに(笑)。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。