192 酒の勢い 5
注意! 危険ですので、現実で酒に酔って腕相撲などなさいませんよう。
「……で、どうしてミランダさんがそこにいるんですか」
マリコの呆れた声とジトリとした半眼がミランダに向けられる。
カウンターを背にして立つマリコの前には一脚のテーブルが置かれていた。決戦の場となるそれは普段一人用の席として使われている、縦一メートル、幅六、七十センチほどの物である。二つ並べて二人席や親子席を作ったり大テーブルにくっつけて席数を増やしたりと、元々数も用途も多い。その小テーブルが腕相撲にも使われているのである。
もちろん食事用のテーブルなので頑丈に作られてはいるものの高さは七十センチそこそこしかなく、これを使って腕相撲をしようとすると上体をかなり傾けねばならない。ミニのメイド服を着込んだ今のマリコがその姿勢を取ればどういうことになるか。さすがのマリコもその状態で防御し切るのは無理な話で、後ろに回ればいろいろと見えかねない。
それ故にマリコはカウンターを背負う位置に立っているのだった。現在カウンターの中にいるのは女性陣だけである。不用意に近付く者は彼女たちの乾いた笑顔に歓迎されるだろう。女の敵に呪いあれ。迂闊に踏み込めば生きたまま地獄に堕ちること請け合いである。
その決戦場を挟んで、マリコの向かい側には勇者――あるいは犠牲者――の列ができている。これはもう成り行き上当然と言えば当然である。しかし、その先頭には何故かミランダが立っているのだった。
「何、思い返してみればマリコ殿と腕相撲で勝負をしたことはなかった故な。少々無理を言って混ぜてもらったのだ。ええと、あれだ、模範試合? いや違うな、何と言えばよいのだ……。ともかくこの機会に私も挑んでみたくなったのだ」
マリコに睨まれてもどこ吹く風で、真っ赤な顔をしたミランダは胸を張って楽しそうに言う。時折スカートの後ろに手をやっているのは、嬉しさに立ち上がりそうになるしっぽを押さえているのだった。
いつもはアドレーに挑まれているミランダである。挑戦する側に回ってみたいというのはマリコにも分からなくはない。腕相撲を提案したのも実はこのためじゃないのかとも一瞬思ったが、マリコはすぐにその考えを打ち消した。ミランダの性格からすればそんな持って回ったことをするくらいなら直にマリコに勝負を挑むだろう。
つまりミランダは、皆をけしかけはしたものの準備を見ているうちに自分も参加したくなったということなのだ。それで一番手にねじ込むなど、わがままさ加減が明らかに酔っ払いのそれである。それでも硬めの普段とは違う砕けた様子のミランダに周囲の視線は生温かく、誰も咎めようとしない。いずれにせよマリコにしてみれば迷惑な話である。
「もちろん結婚がどうこうという話ではない故、そこは気にされずとも構わない」
「当たり前ですよ」
ミランダの言にマリコはさらに呆れた声で返事をした。男に迫られるのも困るが、なら女の子ならいいのかというとそれはそれで何か違うだろうと心のどこかから声が聞こえるような気がするのである。
(まあ、抱きしめて寝るだけなら女の子の方が柔らかくて気持ち良いに決まってますけど)
やや霞みの掛かった頭でそんなことを考えながら、マリコは飲みかけで置いてあったジョッキをつかんでくいっと空け、脇に置かれた別のテーブルにタンと音を立てて置いた。ぷふーと息を吐いていると、すすっと音も無く近付いてきたエリーが黙ってそれを新しい物と取り替えていく。
「ではミランダさんには勝ったらどうするっていう望みは特にないんですね」
「望み? ふむ、挑むこと自体が目的故、そういうことになってしまうな」
「逆に私が勝ったらどうするつもりなんですか」
「いやマリコ殿に勝てるとはとても思えぬ故、どこまで食い下がれるかを確かめてみたくてだな……」
「ほう」
ミランダの答えにマリコの眼がすっと細められる。
「するとミランダさんは自分だけ何のリスクも無しにこの勝負に参加すると」
「うっ」
マリコにそう言われてミランダは言葉に詰まった。他の者にとってこの戦いには――結果の是非はともかく――結婚の申し込みが懸かっているのである。確かに今のままだとミランダだけ遊び気分だと言われても仕方がない。しかし、リスクと言ってもすぐには思い付けず、ミランダが黙っているとマリコが口を開いた。
「では私が勝ったら褒賞をもらうことにします」
「褒賞? まさかマリコ殿!?」
聞き覚えのある言い回しに思わずマリコの顔を見返したミランダは、艶っぽい、しかし同時に獲物を狙う肉食獣の笑みと対面した。捕食者は左手を顔に当てるとクククとかすかに声を漏らしながら、指の間から覗く眼の前に右手を掲げて五指をワキワキさせる。
「そう、それです。この騒ぎの責任も込みですから、この前よりもっとこう……そうですね、一晩、でどうでしょう?」
「くっ、それは……」
素面なら絶対に口にしないであろうセリフがスルスルと出てくる辺り、マリコも結構酔っている。否、女神の間での出来事が未だ消化し切れず、無意識に現実逃避しようとしているのかもしれなかった。
「それともやめておきますか?」
「誰がやめるなどと言うものか。良かろう、その条件で勝負だマリコ殿」
赤い顔を密かにもっと赤らめながらミランダが反射的に言い返す。周りの者には二人のやりとりの意味が分からなかったがなにせ酔っ払い同士のことである。さして気にする者はいなかった。
◇
「準備はいいかい?」
ギャラリーが見守る中、右手を握り合った二人にタリアが声を掛けた。相手の手の甲をテーブルに着ければ勝ち、肘は浮かさなければ動かしても構わない、というのが基本的なルールである。二人はそれぞれ、左手でテーブルの端をつかむと頷いた。
マリコと違って背後が無防備になるミランダのすぐ後ろには借りたテーブルクロスを広げ持ったアドレーが立っている。マリコの物よりは長いとはいえ、しっぽが上がるとスカートの裾が捲れ上がってしまうからである。役得な位置にいるアドレーだが、生真面目なことにその視線は決して下を向かず勝負の方に向けられていた。
「用意……始め!」
「ぬっ!」
「んっ!?」
開始の合図と共に、ミランダは肘の位置を少しズラして一気に力を込めた。二の腕がぐっと膨らみ肩が押し出される。剣の技と同じく速攻である。待ち受ける形になったマリコの腕が押し込まれて傾くと周りから「ああっ」とため息とも悲鳴とも付かない声が上がった。
(意外と強い!)
力では勝っていると思っていたマリコはミランダの思わぬ速攻に驚いたものの辛うじてこらえ、マリコの右腕の傾きは四十五度ほどのところで止まった。数瞬の均衡の後、身体ごと傾いたマリコがそこから力を込めていくと、じきにじりじりとミランダの腕を押し戻し始める。
「んっ、んんっ」
「ぬっ、くっ、くうっ」
幾度か肘を動かしながら巻き返しを図るミランダだったが、マリコの腕をもう一度押し込むことはできなかった。ミランダの腕はそのまま先ほどとは逆の方向に傾いていき、最後はマリコが手首に力を込めたことで拳の先がコツンと軽い音を立ててテーブルを叩いた。
「やめっ! 勝者、マリコ」
決着を宣言するタリアの声に、二人はふうと息を吐いて力を抜いた。一分と掛かっていない勝負だったにも係わらず、両者の額には玉の汗が浮かんでいる。ミランダは少し悔しそうに何度か拳を握ったり開いたりした後、マリコにその手を差し出した。
「ありがとう、マリコ殿。これがマリコ殿か。流石だ」
「いえいえ、思っていた以上に危なかったですよ」
その手を握り返しながらマリコは答える。爽やかに笑顔を向け合う二人の頭からは一晩がどうこうという話はすっかり抜け落ちていた。
(とりあえずミランダさんには勝てた。それにしてもちょっと暑い)
手の平で自分を扇いでいたマリコの下に新たなジョッキが届けられ、マリコは笑顔でそれを傾けた。
飲みまくるマリコさん(笑)。
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