190 酒の勢い 3
「「「「おおおお!」」」」
姿を見せたマリコに宿の建物を揺るがすような歓声が上がり、横から白い泡の盛り上がったジョッキがマリコに差し出される。マリコが振り返ると、驚いたことにジョッキの柄をマリコに向けて捧げ持っているのはサニアだった。
「ちゃんとお礼を言えてなかったから。子供たちとカミルを助けてくれてありがとう」
そう言われてマリコは内心あっと思った。もしマリコやタリアたちが間に合っていなければ、サニアは最悪夫と子供を一度に失うところだったのである。人の死は本人だけのものではないことなど十分知っていたはずなのに、アリアたちが無事だったということでそこまで考えが及んでいなかった。
マリコが宿に戻った時には普通に応対してくれていたので気付かなかったが、改めてサニアの顔を見るとその目は赤い。その赤さが悲しみの涙によるものではないことに安堵しながら、タリアが言ったきっと間違いではないという言葉がマリコの脳裏に甦った。
「今日のあなたの飲み代は全部私が持つからね。料理も片付けも気にしなくていいから思いっ切りやってちょうだい」
マリコにジョッキが手渡されるのを待ちかねたように、また乾杯の声が掛かる。酒飲みの性とでも言えばいいのか、その声にマリコは反射的にジョッキを掲げて口を付けた。
一気に空けるつもりなどなかったマリコだったが、冷えたビールは予想外のうまさだった。思い返してみれば灰色オオカミの報を聞いて宿を飛び出してから何も口にしていない。身体が求めているのだ、普段以上においしく感じるのも当然だった。
気付けばジョッキは空になっており、内心の複雑さとは関係なくマリコは我知らず笑顔を浮かべていた。どこからともなく拍手が起こり、カウンター近くの席に座らされたマリコの前にはすぐに二杯目が運ばれてくる。
マリコが腰を落ち着けるとすぐに、その周りに人が集まった。と言っても若い男共に囲まれたわけではない。マリコに助けられた者やその家族がサニアと同じく改めてお礼をと寄ってきたのである。瓶ビールがあるわけではないので次々と酒を注がれることこそないものの、それなりのペースで飲むことになった。
抵抗して酔わないようにすることも不可能ではないが、酒を飲んで全く酔わないというのでは酒に申し訳ないような気分になる。結果、抵抗を切ったマリコはじんわりと酔いが回ってくるのを自覚した。
(この状況で何かまともに考えようとするのは無理だな)
生命の危険を感じたボスオオカミとの戦い。女神に教えられた己の由来と元の世界での出来事。改めて認識した現在の身体と望み。いろいろなことが立て続けに起こったせいで、マリコは混乱していた。理屈として頭では理解できるところもあるが、理屈では分からない部分もある。
子供が欲しいなどは最たるものである。本当に自分が産みたいと思っているのかと自問してみても今ひとつよく分からない。そもそも真理子と暮らしていた時の記憶でも欲しいと思っていたのだ。それは当然男としての感覚で、である。しかし、今の身体を持って子供が欲しいと思うということは即ち自分が産むということになってしまう。
仮に百歩譲って自分が産みたいのだと認めることにしたとして、それでも問題はある。一人で子供はできない以上、相手が要るのだ。男を受け入れる? 無理無理無理、というのが今のマリコの感覚なのである。そもそも年齢的なものもあって、ここ数年は女の子に対してさえそういった衝動を覚えることはあまりなかった。
それはこちらで目覚めてからも同じである。それどころではなかったということもあるが、特に女が欲しいと思ったことも、もちろん男が欲しいと思ったこともない。それに最も近い感覚なのは、機会があればまたミランダの耳としっぽを撫でてみたいということくらいであろうか。
(そういえば月の女神様の耳としっぽも触り心地が良さそうだったな)
銀の毛で覆われたそれらを思い出しながら、マリコは考え込むのをやめた。とりあえず問題を先送りすることにしたのである。
◇
小一時間が過ぎた頃、マリコはそれなりに酔っていた。もちろんマリコだけではない。マリコが食堂にやってくる前から盛り上がっていた人たちは、もう完全にできあがっている。それでも暴れる者がいないのは大したもんだなあ、などと思いながらマリコはオオカミの煮込みを突きながらホールを見渡した。
まだ比較的早めの時間ではあるが、子供たちはもう姿を消している。残っている者はまだまだ元気らしくそれぞれの席でワイワイやっていた。探検者たちもまだ皆残っていた。かと思えば、空いたテーブルで腕相撲をやっている者がいる。ミランダとアドレーの姿も見えるがいつもの結婚を賭けた勝負ではないらしく雰囲気は比較的穏やかだった。
腕相撲をやっている光景はここではあまり珍しくないらしく、マリコもこれまでに何度か見かけている。ミランダたちが最初にやり始めたのか、元々あった勝負方法にミランダが乗ったのかはマリコも知らない。そのミランダたちの勝負をマリコが遠目に眺めていると、奥の方の席にいた若い男が立ち上がってマリコの方へと近付いてきた。一緒の席にいた別の男もあわてた様子で付いてくる。
(また乾杯かな)
マリコは半分ほど中身の残った自分のジョッキをつと引き寄せた。今夜はもう何度乾杯を口にしたか分からない。さすがに毎回本当に杯を干せとは言われないので大抵は唱和してジョッキを掲げ、時にぶつけ合うだけである。
「あれ?」
じきにマリコの前までやってきた男を見て、マリコは首を傾げた。二十台半ばほどに見えるその男は手に何も持っていなかったのである。
「お代わりですか?」
「いえ、マリコさんにお願いがあります」
立ち上がりかけたマリコを手を振って止めると、男は真面目な表情を浮かべてそう言った。後から付いてきた男がやめろという顔でその袖を引っ張っている。
「何でしょう」
「俺、いや、私と結婚してください」
「「「何ぃ」」」
マリコが驚く前に、周りの男たちから叫ぶような声が上がった。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。