189 酒の勢い 2
客席から上がった歓声に気圧されたマリコはじりっと後ずさると、振り返ってタリアを見る。マリコの視線を受け止めたタリアは片方の眉をちょっと上げた後、ああと何かに納得したように頷いた。
「そういえばあんたは初めてだったね、こういうのは。あれは喜んでるのさね。乗り越えられた事を。そして何より、誰も死なずに済んだことをね」
「え、いえ、だって他にもいろいろ……」
怪我をした人たちやオオカミにやられた家畜たちはどうなったのか。修理が必要だと言っていた柵はどうなったのか。途中で放り出した麦刈りは。マリコはそれらの疑問を口にした。
「大体カタは付いてるさね。ああ、さすがに麦刈りはまだ途中だがね」
「ええ!?」
「怪我が残ってた連中と手当が間に合った羊と牛は私らで何とか治した。やられちまったのは羊が三頭に牛が一頭さね。可哀想ではあるけれど、そのために飼っている訳でもあるからね。柵も元通り。いや、むしろ補強を入れた分、直した所は前より丈夫になってるんじゃないかね」
オオカミが倒されて当面の危険が無くなったところで、里の者ほぼ総出で後始末をしたのだと言う。こういう場合に誰が何をするかは普段から決まっており、怪我などで本人が動けない時の代わりも指定されているのだそうだ。その後、時間的に今日は続きを行うのが難しい麦刈りの片付けを終わらせて今に至るのだとタリアは言った。
「それは何と言うか、手回しがいいですね」
感心したように言うマリコにタリアは少し呆れた顔をした後、何かを思い出したようにふうと息を吐いた。
「やれやれ、すっかり馴染んでるもんだから、あんたがここへ来て間が無いってことをすぐに忘れちまうねえ。その上に力も持ってるあんたには、実感しろったって無理な話かも知れないねえ」
タリアはそう言うと改めてマリコと目を合わせた。
「マリコ、ここはどこで、ここに住んでる私らは何だい?」
「え? ここはナザールの里で、住んでる人たちは……あ、いえ」
一瞬タリアの問いの意味が分からず、自分の率直な認識を口に出しかけたマリコだったが、途中で気が付いた。
「ここは最前線で、そこで暮らしているのは開拓者って……」
「そういうことさね」
マリコの答えにタリアは笑みを返した。
「転移門なんかの神様が下さった力があるおかげで普段の暮らしにはさして困らないけどね。ここは元々人なんか住んでなくて、周りに何があって何がいるのかもまだはっきり分からない所なのさね。だからこそ最前線と呼ばれるんだがね」
「じゃあ、今日みたいなことは結構あるってことですか」
「まさか。あんなものが向こうからやってくるなんてことが、しょっちゅうあって堪るもんかい。普通ならああいうのにぶつかるのは里を広げる時さね」
転移門を中心に里を広げていくということは、元々そこに住んでいたものを他所に追いやるか倒すかということである。大物と対峙するのはそういう場合がほとんどなのだ。大抵はまず探検者が発見することになるので、そのまま戦うか別に対処を考えるかということになる。しかし、相手も動く以上、あちらからやってくることも有り得るのだった。
「もちろん、準備できることはしておくし、何かあった時にどうするかも決めてある。小さい里だからね、皆で掛からないとどうにもならないのさね。ただね、人の身で全てに備えるなんてことは無理なんだよ。だからこそ放牧場があって、探検者がいるのさね」
覚悟というか、ある程度の割り切りがないと最前線では暮らせない。それでもなお、何かを求めてそこに住もうとするが故の開拓者であり探検者なのだとタリアは言った。
――後ろでじっとしていられない奴ら
かつてタリアが開拓者のことをそう言い表したことをマリコは思い出し、確かにそうなのかも知れないなと思った。
「まあ、だからこそああやって皆の命のあったことを喜んでるのさね。生きてさえいれば何とでもなるからね。後で皆にも言われるだろうけど、先に私からも言っておくよ。あんたがいてくれたおかげで誰も死なずに済んだ。ありがとう、マリコ」
「あっ、いえ、私は」
タリアにいきなり頭を下げられてマリコはあわてた。あの時、深く考えて行動したわけではないのは自分が一番よく知っている。人は死ぬ時はひどくあっけなく死ぬのだ。それを見逃せなかったに過ぎない。
自分の手の届く所で命が零れ落ちそうになっているのが許せなかった。言い換えれば、かつて零れ落ちた命に自分の手が届かなかったことが許せなかったのだ。どちらかと言うと八つ当たりに近いかもしれない。無事に済んだからいいようなものの、もし自分も死んでいたらさらに迷惑を掛けていただろう。
「いいんだよ。あんたがやりたいと感じてやった結果、皆生きてる。だから、あんたの感じたこと、やったことはきっと間違いじゃないさね」
「タリアさん?」
顔を上げたタリアがニヤリとしてそう言う。とてもではないが、里を治める為政者の言うべきセリフではないなとマリコは思った。
(いや、でもタリアさんって……)
タリアは夫と共にナザールの門を発見した人物である。常に安全策を取るような人ならそもそも門の探検者にはならないのではないか。そう考えるとタリアは確かに開拓者を率いるに相応しいのかもしれないなとマリコは思った。
その時何故か唐突に、奇しくも女神が同じような事を言ったのを思い出した。
――おぬしのしたいようにすればよい
今回はしたいと思ったことをほとんど反射的に行い、運良く皆を助けることができた。では、これからの自分がしたいこととは一体何だろうかとマリコは思う。
マリコは真理子を忘れるのを厭うて「マリコ」を作り、その「マリコ」が消えずに済むならと考えて選んだ結果、自分自身がマリコということになってしまった。元の自分が転生したわけではないとは説明されたものの、新たな身体と生命を得たと思えなくもない。しかし、外見が外見なのでやはり自分はマリコなのだというところに戻っていく。
では、マリコとしてしたいことは一体何だろうかとマリコは考える。
(これが真理子の望みならはっきりしてたんだがな)
真理子は子供を欲しがっていた。もちろん彼の男との子供である。結局これは叶うことがなかったと、ここまで考えたところでマリコは愕然とした。その望みが、己自身の中にもあることに気が付いたのである。
(いや、待って待って)
確かにマリコは現在十九歳、性別は女である。子を成せる身体であることは先日身を以って知った。それを喜ばしいと感じたことも覚えてはいる。でも。しかし。何故。
混乱して冷や汗を浮かべるマリコの肩が、優しく叩かれた。
「何を考え込んでるんだい。そんなに気にするこたないよ」
「え、あ、いや」
タリアにしてみれば、マリコがこのちょっとした沈黙の間に何を考え込んでいたかなど分かるわけがない。遠慮があるのだろうと思ってマリコの肩を押した。
「今夜は仕事はいいから、とりあえず皆の気持ちは受け取ってやっておくれ」
マリコは混乱したままホールへと押し出された。
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