188 酒の勢い 1
2016/09/02 前話(187話)中の「清掃」を「清めの儀」と変更しております。
「……でもないじゃないですか!」
張り上げたマリコの声は無人の部屋に空しく吸い込まれていった。猫耳女神の姿は既に無く、白い石の床は褐色の木の床に、周りを取り囲んでいた輝く星々が浮かぶ宇宙は白い壁に変わっている。女神の指が鳴る音が聞こえたと思った途端、マリコは一人自分の部屋に立っていた。
「って、もういない。ああいや、私の方が帰って来たのか」
マリコは思わずそう口に出した。何が起こったのかは理解している。女神の間から送り返されたのだ。障子越しに届く外の光はやや赤味を帯び始めており、夕方と言っていい時間帯になっていることを感じさせた。その障子の向こうにある中庭ではまだオオカミの解体作業が続いているらしく、物音や人の声も聞こえてくる。暖か味のある色合いに染まった見慣れた部屋の様子に、どこか安心してふうとため息をついた。
(帰って来た、か)
ベッドにぽすんと腰を下ろし、今無意識に自分の口から出た言葉を思い出してマリコはかすかに口角を上げた。この部屋がすっかり自分の帰る場所になっていることに改めて思い至ったのである。
(ここを放り出していきなり消えるとか、できる訳がない)
いろいろと考えさせられることばかり聞いてきて、考えねばならないことだらけなのは分かっている。だが、ここに留まるという選択だけは何度聞かれても変わらないだろうとマリコには思えた。自分のためにも、「マリコ」のためにも、そして、真理子のためにも。そのままパタリとベッドに倒れこみ、目を閉じようとしたところでハタとあることに気付いた。
(帰って来たからって何を安心して和んでるんだ、私は)
閉じかけた目が見開かれ、上半身が跳ね起きる。女神の最後の言葉を思い出したのである。時々掃除しに来いと女神は言ったのだ。
「何が神託、何が清めの儀ですか。文句言ってやらないと」
細かいところまでは聞いていないものの、そこへ行き来する方法はメニューにあるとも女神は言っていた。マリコは今戻ってきたばかりの女神の間に再び推参するべく、とりあえずメニューを開くために襟元へ指を差し込んでチョーカーに触れた。そのままメニューと考えると、先ほどと同じようにメニューウィンドウが目の前に開く。
「ええと、女神の間に行くには……」
マリコが探し始めたところで、コンコンと扉をノックする音が響いた。ギョッとしたマリコは急いでメニューを閉じる。
「はい?」
「お、マリコ殿、おられたか。今、構わぬか」
半ば反射的に返事をしたマリコに、扉の外からミランダの声が聞こえてくる。マリコは立ち上がると扉に歩み寄って鍵を開け、ミランダを部屋に招き入れた。
「すまぬ、マリコ殿。声が聞こえたので来てみたのだ。もしや、寝ておられたか?」
「ええと……、いえ、ちょっとうとうとしてたみたいですけど、さっき目が覚めましたから」
どうもミランダは先ほど戻った際のマリコの声を聞きつけたらしい。マリコはどう答えたものか少し迷ったが、ミランダの言った通り寝ていたことにすることにした。嘘を言うのは気が引けたが、あったことをそのまま伝えるわけにもいかないのである。
(月の女神様に会ってきましたとか言ったら、ミランダさんがどう反応するか分からないし)
「あれだけのことをされたのだ、疲れが出るのも当然であろうな。それで身体の方はいかがか」
「ああ、それは大丈夫です。ご心配をお掛けしました」
「いやなに、かのマリコ殿のことだ。そこまで心配などしておらぬ」
ミランダはそう言うと、ちょっと照れ臭そうに横を向いた。その様子を見て、こういうところが可愛らしいよなあとマリコは密かに思う。
「ところで、今何時くらいですか?」
「え? ああ、もうじき十七時になるところだ」
「ええっ!? じゃあ、夕食の仕込みが」
時刻を聞いてマリコはあわてた。ただでさえ麦刈りで忙しく、いろいろと前倒しでやっている時期なのである。十七時であればもうディナータイムを始めなければならない時間だった。
「ああ、そちらは問題ない。マリコ殿はできるだけ休ませておくようタリア様がおっしゃられてな。皆で掛かった故、夕食の準備はもう済んでいる。それよりもだな……」
「何かあったんですか?」
「マリコ殿が、呼ばれている」
「え? タリアさんですか?」
「あー、マリコ殿の様子を見て、大丈夫なようなら来てもらえと私に指示されたのはタリア様なのだがな……」
「はあ」
何となく歯切れの悪いミランダにマリコは首を傾げる。
「まあ、実際に見てもらった方が早いであろうな。マリコ殿が行かねば収まらないだろうとは私も思う」
ミランダはさらに首を傾げるマリコを促して部屋から出た。二人して廊下を進み、いつものように後ろ側の入り口から厨房に入る。既にフル回転状態になっているその熱気にマリコが目を丸くしていると、そこを仕切っていたらしいタリアが振り返った。
「おや、来たね。身体の方は大丈夫かい?」
「ええ、それは大丈夫です……が、これは一体どうしたんですか」
元よりレベルアップのおかげでマリコの身体はほぼ万全である。そんなことより、マリコにはカウンターの向こうが気になった。席が埋め尽くされているところはここ数日見慣れた光景である。
しかし、いつもと雰囲気が違った。何が、と思って見たマリコはすぐにその違いに思い至る。まず、いつも以上に騒がしい。そして、いつも以上に皆の顔が赤い。まだ夕方だというのに食事ではなく酒宴モードになっているのだった。
何が違うかは分かった。だが、どうしてなのかがよく分からない。麦刈りが終わればお祭りみたいになるとは聞いたものの、予定としてはまだ半分程のはずなのだ。それが何故早くもお祭り状態に突入しているのか。
「あっ、マリコさん!」
「何、どこだ?」
「ほら、カウンターの向こう」
マリコが考えていると、客席から声が上がった。カウンターの奥にある厨房に姿を現したマリコを目ざとく見つけたらしい。
「主役だ!」
「主役が来た!」
「乾杯だ!」
「おう!」
「乾杯!」
「「「「乾杯!」」」」
「「「「うおおお!」」」」
誰が何の主役で、何に乾杯なのか、マリコには意味が分からなかった。否、薄々気付きかけたが、分かりたくなかった。
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