187 女神の間 9
「さて、わしが思っておったのとは少しばかり違うたが、おぬしがここへ来た目的は達せられたかの?」
「え、ええと」
話は一区切り着いたということだろう。マリコに口止めした後で女神はそう言い、言われた方のマリコは一瞬答えに困って口ごもった。元々いきなりこの世界で目覚めた自分に一体何が起こったのかが知りたかったのである。そういう意味では答えは得た。しかし、その内容が想像の外にあったのだ。
「まあよいわ。わしもいろいろとしゃべり過ぎた。困ったらまた聞きにくればよかろう。ところでどうするのじゃ」
「どうする、とは?」
「レベルリセットじゃ。ここに来るための方便じゃったことは分かっておるがの、ついでじゃからしていくかの?」
「……いえ、今はやめておきます」
少し考えてマリコは断った。将来的に強くなるためのレベルリセットではあるが、一旦ある程度弱体化するのは避けられない。今日起こったようなことがまた起きないとも限らない以上、現状維持の方が良さそうに思えた。レベルリセットがいつでもできるのなら、今の能力に戻るところまでレベルを上げるのにどれくらい掛かるか見当を付けてからでも遅くはない。
「ではキャンセルじゃの」
女神がそう言うとマリコの前にウィンドウが開いた。キャンセルしますか、という文字と「はい」、「いいえ」の選択肢が並んでいる。マリコは「はい」を選んだ。
「今ついでに聞いておきたいことはあるかの?」
ウィンドウに向き合うマリコを見ながら女神が言う。聞きたいことはまだいろいろとあるように思うマリコだったが、それ以前にさっきまでに聞いたことが消化しきれていないのである。今はいいかと首を振ろうとして、ふと一つ思いついた。
「ここはどこなんですか?」
ゲームでは女神の間と呼ばれていた、このステージである。いつでも来られるとは聞いたものの、宙に浮いているように感じるここは一体どこにあるのか。それが何となくマリコは気になった。
「ふむ、ここかの。多分、おぬしの想像通りじゃと思うがの。真上を見上げてみよ」
言われた通り、マリコは顔を上に向けた。
「あっ!」
月が輝いていた。
地上から見るより何倍も大きな満月が、天の頂からステージを照らしていた。ステージ中に明るく降り注いでいた光の源は月だったのである。人は案外上に注意を向けないという。ここへ来てゲームと違う様子にあちこち見回したはずのマリコだったが、真上を見上げた覚えはなかった。
何倍も大きく見えるということはそれだけ距離が近いということである。このステージはやはり宇宙にあるのかとマリコは納得した。同時にもう一つのことに思い至る。
「じゃあ、どこかに地球が……」
「ああ、もちろん見えるの。今じゃとこっちじゃ」
パソコンデスクにもたれ掛かっていた身体を起こすと、女神は石の床の端に向って行く。途中でまたゴミ箱を引っ掛けて中身をさらに散らかした。マリコとしては気になるものの女神に促されてそちらへ付いて行く。
「ここから下を見てみよ。ただし、床の真下を覗き込むでないぞ。太陽がまぶしいからの」
「あ……」
床の端に近付いて斜め下を見下ろしたマリコはその目に映った物に言葉を失う。それは頭上の月と同じくらいの大きさの美しい惑星だった。太陽と同じ側にあるために今は半分以上が影になって三日月のような形に見えるが、その青い色は写真やテレビで見た地球とそっくりである。女神の間は月と太陽に挟まれる位置に浮かんでいるのだった。
――いつも月から見てて面白そうなことを見つけたらやってくるとか
マリコの脳裏に、タリアが語った月の女神についての話が甦る。
「本当に月にいるわけじゃなかったんですね」
「当たり前じゃろう。岩と砂ばかりの上に、同じ場所に留まっておったら一月の半分は夜になるんじゃぞ。それならここでずっといつも明るい方がいいに決まっておろう」
(いや、こんな物を浮かべていられるんだからどうにでもなるような)
頭に浮かんだ突っ込みは口に出さず、マリコは頷いて別の疑問を口にする。
「……なるほど。でもずっと明るいのは逆に不便じゃないですか?」
「よくぞ聞いてくれたの。そのためのあの天蓋じゃ」
女神は笑みを浮かべてそう言うとパチリと指を鳴らした。その途端、白かった天蓋の布が銀色に変わり、ベッドの上に暗い影を作る。確かにこれならベッドに入ってもまぶしくはないだろう。
「それ、そういう目的だったんですか」
ベッドの天蓋は本来なら天井や屋根裏から落ちてくるゴミや虫を防ぐための物である。屋根もないのに何故そんなものがあるのか、始めに目にした時からマリコは不思議に思っていたのだった。
「そうじゃ。このベッドには他にも……む、何事じゃ」
嬉しそうに言いかけた女神は何かに気付いたように言葉を切ると眉根を寄せ、三度ゴミ箱を弾き飛ばしてパソコンデスクへと向う。
「あっ、また!」
さすがに見逃す気にならなくなったマリコは、女神がモニターに向き合っている間にそこへ屈みこんで散らかった物を拾い始めた。ふと視線を横に向けると、ベッドの下にも今入り込んだとは思えないゴミらしき物がいくつも見える。こちらも眉根を寄せたマリコはゆらりと顔を上げた。
「ここ、なんでこんなにゴミがあるんですか」
「う、うまそうな物を見つけたら食べてみたいじゃろうが。供えられる物も多いしの」
マリコは潔癖症には程遠いものの、食べ物のゴミをそのままにすることはない。このところ厨房の仕事もしているので余計である。つい詰問するような口調になった。一方の女神はモニターからマリコの方に向き直って言い訳じみたことを口にする。
「掃除とかどうしてるんですか」
「そのようなこと、力を使えば一撃じゃ」
「あんまりやってるようには見えないんですが」
「い、いや、そのような瑣末な事にしょっちゅう力を使うのもその、なんじゃ……いや、今はそんなことよりもじゃな!」
マリコの半眼に女神の語尾が小さくなっていきかけたが、思い出したように言い足すとモニターをマリコの方に向けた。そこにはマリコにとって見覚えのある場所と人物が映し出されている。
『マリコ殿、マリコ殿!? はて、手洗いにでも行かれたか。それとも眠ってしまわれたか』
画面の中のミランダはマリコの部屋の扉をノックした後、しばらく待ってそう言うとどこかへ去って行った。
「時間切れじゃの」
マリコは時計を持っていないので正確なところは分からないが、ここへ来てから五分や十分では済まない。ミランダが部屋の鍵と同じ物を持っている以上、不審に思えば躊躇なくマリコの部屋に入るだろう。不在がバレるのも時間の問題である。
「戻らないと」
「うむ。今回はわしが戻してやるが、ここへ来るのも戻るのもメニューにあるからの。後で確認しておくのじゃ」
「はい」
「それからの。おぬしはおぬしのしたいようにすればよい。とりあえず今言えるのはそのくらいじゃ」
「……はい」
「それでは送るとするかの」
マリコが現れた位置に戻るのを待って、女神は右手を上げた。
「お願いします」
「……最後に、神託を与える」
「え、神託?」
「おぬしは数日に一度はここを訪れて清めの儀を行う。以上じゃ。ではの」
「ちょ、それ神託でもなん……」
女神の指がパチリと鳴り、何かを言いかけたマリコの姿は女神の間から掻き消えた。
2016/09/02 「清掃」→「清めの儀」と変更しました。いや、雰囲気がですね……(汗)。
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