185 女神の間 7
マリコは現れたウィンドウの内容を一瞥すると、迷う事無く「新たな世界に留まる」に指を触れさせた。選ばれた選択肢が明るく光ってウィンドウが消える。今回は同意書は出なかった。
「ほう。ノータイムとは潔いの」
女神が感心したような声を上げた。それを耳にしたマリコはジトリとした目で女神の顔を見上げる。
「な、なんじゃ、その目は」
「自分が誰かとか、これからどうしたいかとか言う以前の問題でしょう、今のは」
「なんじゃと!?」
「一つ聞きますが、もし消え去るを選んでいたらどうなってたんですか」
「それはもちろん、おぬしには消えてもらうことになっておったろうの」
「この場で?」
「そういうことになろう……かの」
段々と剣呑な雰囲気になっていくマリコに、女神の返事は先細りに小さくなっていった。
「その場合、里の皆さんから見るとどういうことになるんですか?」
「……急にいなくなったということになるかの」
予想通りの答えにマリコは胃の辺りがきゅうっと締め付けられるような感覚を覚えた。ミランダを始めとした宿や里の皆の顔が頭に浮かぶ。ただでさえあのボスオオカミ騒ぎの後である。部屋に着替えに戻ったはずのマリコがそのまま行方不明になったら今度は一体何が起きるのか、考えるまでもなかった。
「そんな無責任なことができるわけがないでしょう」
人は突然去って行く。その時残された者がどうなるかもどんな手間が掛かるかもマリコは嫌というほど知っていた。そのため、一人になった時にいろいろと手配をしてあったのだ。一日連絡が途絶えれば警備会社が様子を見に来る契約になっており、遺言状も弁護士に預けてあり、寺院にも頼んである。周囲に掛ける迷惑は皆無にはできないまでも最小限で済むはずだった。それがマリコのこととは言え、突如行方不明など許せる訳がない。
「むう、ではおぬしは彼の里に現れなかったことにするというのはどうじゃ」
そんなことができるのかと驚いたマリコだったが、とりあえず詮索は後回しにして考える。だが、ほんの一瞬で結論は出た。この十日ほどの間に自分は何をやってきたか。特にボスオオカミが現れた時に自分がいなかったら。何とか最後には倒せたとしても、アリアは、ハザールは、バルトたちはどうなるのか。
「余計悪いじゃないですか!」
「ぬう」
知らなければまだしも、誰かが死ぬと分かっていて自分が消えるなど認められるものではない。
「どちらにしても、今のまま消え去るつもりはありませんから」
「ほう、そうかの」
マリコの言葉に女神は意外そうな、それでいてどこか嬉しそうな反応を見せる。マリコは女神に思うところを話した。
元々「マリコ」が消えずに済むならそれでよかったのだ。その思い自体は今も変わっていない。そして現在、肉体を持った存在としてマリコはここにいて、十日ばかりとは言えマリコとして暮らしてきたのである。大した事ではないかも知れないが、柵もできたし約束したこともある。放り出す気にはなれなかった。
将来的にどうしたいかなど、これまで考えられる状況になかったので今の所言うべき言葉を持たない。しかし、お前は誰だという問いに対してはマリコであるとしか答え様がないなと思うマリコだった。中身が自分という部分で何とも言えない違和感が拭いきれなかったが。
「結局のところ、私は死んで転生したわけではなかったということですね」
大体の話を終えたところで、始めに感じた疑問についてマリコは口に出した。
「転生じゃと? ああ、彼の世界で時々物語に出てきておったやつじゃの」
「彼の世界にって……。じゃあ、この世界に転生は無いんですか」
「ん? 先に問うがの。おぬしの言う転生とは一体どういうものじゃ」
「え? ええと、死んだ人とかが別の人間に生まれ変わるんですよ」
「生まれ変わりのう。そういうものはないの。生は個の始まりにしてその前など無く、死は個の終わりにしてその後など無い。じゃがそれは彼の世界でもそうじゃぞ。生き物というものは肉体が機能停止してしまえば記憶も吹き飛んでしまうからの」
「え」
「そもそも生まれ変わったかどうかなぞ、どうやって確かめるのじゃ」
「ええ? いやいや、生前の記憶を持って……」
「記憶なぞ、ちょっと力のある神ならコピーすることもさして難しいことではないのじゃぞ。それこそ今のおぬしのようにの」
「それは」
自分の記憶がコピーであると告げられたのはついさっきのことなのだ。同じ記憶を持つから転生ということにはならない。それに先ほどの映像から考えると、タイミング的には男が倒れる前にマリコはもういたことになるので死んで生まれ変わったわけでもない。だからこそ自分は転生したのではないと思ったのである。
「結論から言うとじゃな、生まれ変わり、殊に世界を超えての転生などというものはないのじゃ。あるのは、どこぞの世界の神が彼の世界から記憶をコピーしてきて用意した肉体にインストールしたり、肉体の構造共々コピーしてきて再現しておったりといったことじゃな」
「いや、誰かの生まれ変わりだっていう人はいたと思うんですが」
「それはたまたま過去の誰ぞと記憶が似ておったか同じ部分があった、ということじゃろう。人の脳が複雑じゃとは言え、容量に限度がある以上パターンにも限界があるでの」
思ってもみなかった方向に話が進んで、マリコは少々目まいを覚えた。同時に今の女神の話には新たに気になることも含まれていた。
「彼の世界以外にもどこぞの世界とか言ってましたけど、他にも世界はあるんですか」
「ある、というかあるはずじゃ。わしも直接見たことはないがの」
「神様でも見たことがないんですか」
「ああ、わしが見られるのは……っと」
女神はそこで言葉を切るとちょっと首を傾げて頭を掻いた。
「ふむ、ここまで話すつもりはなかったんじゃがな。まあよいか。同意書で少々しくじった侘び代わりじゃ。おぬしにはもう少し話しておいてもいいじゃろう」
さてどう話したものか、と再び言葉を止めて少し考え込んだ女神はじきにまた口を開いた。
「わしが見られるのはこの世界と彼の世界のみじゃ。それ以外の世界については、あるじゃろうという推測しかできぬ。何故そんなことになるかというとじゃな、……おぬしも薄々気付いておったじゃろう。彼の世界に生粋の神などおらぬということに」
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