183 女神の間 5
マリコの脳裏にこの世界で目覚めた時の事が甦った。アリアに起こされたあの時、自分の身体に戸惑いながら最初は夢かと疑い、次に仮想世界にダイブしたのかと疑い、これらはどちらも違うだろうと結論付けたのだ。そして最後に異世界に転生したのかと疑ったはずである。そこまで考えた時、マリコはふとある事に気付いた。
(そうだ。自分は死んだんじゃないかって思ったんだ。でも、今のこの私の記憶がコピーだと言うんなら……)
マリコが猫耳女神に顔を向けると、金色の瞳が見返してくる。
「何かの?」
「私は、いや記憶を使われた彼は、変わらないというならどうなったんですか」
「ぬ、一番に気にするところがそこかの」
女神は苦笑じみた息を一つ吐くと、そう言って一度言葉を切る。視線を前に向けて少し考える素振りを見せた後、マリコに目を向け直した。
「ふむ、自分の目で見た方が早かろうの。こっちじゃ」
そう言うとベッドから立ち上がる。マリコが続いて腰を上げたところで女神は横に足を踏み出し、あっと声を上げた。軽い物の倒れる音がして籐か竹で編んだような高さ三十センチほどの太い円筒形の物が転がり、中に入っていたらしい紙くずやうす茶色の箱や竹の葉らしきもの床に散らかる。
「え、ゴミ箱?」
散らばった物を見たマリコが、つい疑問を口にする。転がった筒は大きさといい形といい、どうみてもくず入れだった。そこから飛び出した箱は薄く削いだ木で作られたいわゆる折り箱で、竹の葉と共に軽食やお弁当を入れるのに使う、宿でも見かけた物だったのである。
「ええい、蹴飛ばしてしもうた。ああ、今はもうそのままでよい。こっちへ来るのじゃ」
ここしばらくの仕事の癖が出たとでもいうのか、散らかった物をしゃがんで拾い集めようとしたマリコを止めると、女神は奥にある机の方に向かった。マリコは立ち上がって改めて回りを見る。
始めにマリコが現れた真ん中辺りには何もないものの、それ以外の場所には、流しに食器があったりと細々した物があちこちにあるのが目に付いた。何と言うか、妙に生活感があるのだ。四方全てを壁に囲まれてこそいないものの、マリコには最早ここは女神の部屋だとしか思えなくなってきた。
「ほれ、そこに座るのじゃ」
「これは……」
女神を追ったマリコを待っていたのは見覚えのある机とイスだった。使い込まれて古びた木製のそれらはマリコが、否、男がずっとパソコンデスクとして使っていた物そっくりなのである。その机の上に、これまた男が使っていた物そっくりの液晶モニターが載っていた。
ただし、画面の部分は鏡のようになっており、席に着いたマリコの顔が映っている。あるのはモニターだけでパソコン本体やキーボードなどは見当たらず、本来ならモニターの後ろから何本か伸びているはずのケーブル類も無い。マリコは傍らに立つ女神に疑問の浮かんだ目を向けた。
「言いたいことは分かるがの、それもまとめて後じゃ。とりあえず、それを見よ」
女神はそう言ってパチリと指を鳴らす。その途端、モニターの画面に映っていたマリコは消え、バックライトの光が灯った。天井付近から見下ろすような角度でどこかの部屋の様子が映し出される。映像だけらしく、音は聞こえなかった。
部屋には三つの机が並んでいた。一つは今マリコが座っているのとそっくりな物で、その席に着いた男がこちらに背を向けてパソコンを操作している。残る二つはもっと新しい大き目のパソコンデスクで、座り心地の良さそうなメッシュのチェアはどちらも空だった。デスクの上のパソコンとモニターには埃避けらしい布が掛けられている。
じきに画面はカメラがズームするように男に近付いた。男はトレーナーにジーンズ姿で、マリコの記憶によればそれはゲームがサービス終了となるその日に着ていた組み合わせだった。男の肩越しにモニターが見える。マリコが見守る中、画面上の男はパソコンを操作してゲームにログインした。ここまではマリコの覚えている通りである。
「えっ!?」
しかし、そこから先はマリコの記憶とは違っていた。
「マリコ」が降り立った王都には人があふれ、もう随分と姿を見ていなかったギルドメンバーたちと再会した「マリコ」は彼らと挨拶やチャットを交わし、共に街を野外をダンジョンを駆け足で巡り歩いた。やがて終末の時刻が近付くと彼らは王都に戻り、楽器をかき鳴らし派手なエフェクトを連発し分かれの言葉を言い合ってその時を待った。
ついにその時は訪れ、「マリコ」は強制的にログアウトさせられる。世界は終わった。
男は公式HP、メーカーのHP、攻略サイトと、いくつかのウェブサイトを見て回り、何かに納得したように頷いてブラウザを閉じ、パソコンの電源を落とした。そしてそのまましばらく動かなかった。
どのくらいそうしていただろうか。男はフラフラと立ち上がると、部屋の外へ繋がる扉へと向かう。視線はその背中を追って動いた。
廊下に出た男は数歩歩いたところでふらつき、壁にもたれ掛かった後、ガクリと崩れて膝を床に着いた。左手を壁に置いたまま、右手で胸を押さえた男はそのままその場に倒れた。
それまで黙って画面を見ていたマリコは、そこであっと声を上げた。玄関から各部屋へと繋がる廊下。男が倒れた位置。奇しくもそこは、かつて真理子が倒れていた場所だった。
床に伏した男はもう動かない。画面はそこでブラックアウトした。
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