182 女神の間 4
マリコにとって見覚えのあるウィンドウが目の前に開いた。違いがあるとすれば、前回は液晶ディスプレイの画面上にあったウィンドウが空中に浮かんでいるところぐらいであろうか。マリコは現れた文面に目を走らせた。運営会社を甲、ユーザーを乙とし、といった契約書のようなお馴染みの文面が並んでいる。
もちろん一ページだけで済むような短い文章ではないので、ウィンドウの右側には前に見た時と同じくスクロールバーがついていた。マウスがあるわけでもないので、マリコは選択肢の画面の時と同じようにスクロールバーに指を当てる。少し動かしてみると指の動きに従ってバーも動いた。マリコは指を下げて画面をスクロールさせる。
一画面分スクロールしたところで内容が一変した。堅めの文章が唐突に途切れ、タイトルのような大きな赤い文字が現れたのである。
――ここまではカモフラージュじゃ!
「は!?」
マリコは思わずぶんと首を振って、傍らに座っている女神の顔を見た。マリコと一緒にウィンドウを覗き込んでいた女神は、その頭から突き出たミランダのものより一回り大きな猫耳をピクリと震わせると少しバツの悪そうな表情をして目をそらす。
「い、いや、おぬし、これまでならこういう文書の類は絶対中身を確認しておったじゃろ? じゃからこうやっておけば必ず気が付くと思っておったの……あっ! おぬし!」
途中まで言った女神は何かに思い当たったように声を上げると、勢い良くマリコを振り返った。
「今そこを見て驚くということは、この中身をきちんとどころか全く見ておらんということか!?」
「え? は、はい……」
「……」
マリコの返事を聞いた女神は視線を下げ、その可愛らしい顔にひどく真面目な表情を浮かべて黙り込んだ。そのさすがに神というだけあって神々しさを感じさせる雰囲気に呑まれたように、マリコも黙って女神を見守る。程なく女神は顔を上げて固い表情のままマリコの目を見た。
「ひとつ聞きたい」
「な、なんでしょう?」
「おぬし、何故同意書の中身を見ずに同意したのじゃ。先も言うたが、これまでのおぬしなら必ず中身を確認しておったじゃろう?」
「え?」
問われたマリコは改めてその時のことを考え、それを女神に話して聞かせた。
それまでマリコは確かにああいった同意書に中を全く見ずに同意したことなどない。それなりの社会経験からそれが危険であることは十分知っているからだ。にも拘らず、「同意する」を押したのは何故か。
「マリコ」が消えずに済むなら他の事はどうでもよかったのだ。
男にとって「マリコ」は単なるゲームキャラではなかった。沈み込んでいた自分を救い上げてくれた存在であり、己が育て上げた理想の真理子であり、己自身の分身でもあったのだ。自分でも歪さを感じないではなかったが、一人残された自分に最後に残った家族、あるいはその象徴が「マリコ」だった。故にあの時、後の事など考えもせずに「同意する」を押したのである。
「……なるほどの」
マリコの話を聞き終えた女神はそう言って頷くと再びマリコの顔を見た。
「ふむ、大体分かった。いや、手間を取らせたの。で、どうする?」
「どうするって……」
「同意書じゃ。まだ続きを読むかの?」
「え、ああ」
そう言われてマリコは前に向き直った。そこにはまだウィンドウが開いており、カモフラージュじゃの大文字が出てきたところで止まっている。
「もちろん読みますよ」
既に同意してしまっているとは言え、見つけた以上は何が書いてあるのか確認しないわけにもいかない。メニューなどの使い方も書いてあると聞いたからにはなおさらである。マリコはウィンドウの中身をスクロールさせて次の内容を表示させた。
(え、これ……)
そこから後に書かれたことを読んで、マリコは言葉を失った。言葉の意味は分かるものの、それが伝える事柄を理解しかねたのである。マリコはもう一度その部分を読み直した。
この手の文書らしくやや堅めの文体で書かれた冒頭部の内容は、要約すると女神ハーウェイの世界に「マリコ」を実在の人物として構築し、その肉体を適切に司ることができる人格として男の記憶を使用するというものであった。その後に、メニューの呼び出し方を始めとしたゲームの仕様を持ち込んだ部分の使用法や相違点・注意点などが続く。
最後まで読み終えたマリコはゆっくりと女神の方に顔を向けた。その視線が、マリコに向けられていた女神のそれとぶつかる。
「女神様、これは本当のことなんですか」
「ああ、本当のことじゃ」
自分でも固いと感じる声で聞いたマリコに、こちらも真面目な雰囲気の女神の声が答えた。
「じゃあ、この同意書が指す同意の意味は……」
「ああ、おぬしが受け取った通りじゃ」
使用許諾同意書。これはパソコンにプログラムをインストールして使用することに対する同意を求める文書などではなかった。この世界に現れる「マリコ」の人格を構成するに当たり、男の記憶を使用することに対して同意を求める文書であったのだ。
「これ、記憶を使われた方はどうなるんですか」
「ん? 別に記憶を奪い取るわけではないからの。特に何が変わるわけではないの」
記憶を使用する。しかしそれは奪い取るわけではない。この二つの点から浮かび上がった事柄をマリコは口にする。
「では、今の私の、この記憶は」
「ふむ、コンピューターを使う者に分かりやすい言い方をすれば、「マリコ」を作り育てたプレイヤーの記憶、それを違う身体に「別の名前で保存した」ということになるかの」
「それはコピーということではないんですか」
「簡単に言ってしまうとそういうことになるかの」
予想した通りだったとは言え、十二分に衝撃的な内容のはずのその女神の言葉を、マリコは不思議と落ち着いた気分で受け止めた。
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