173 怪我と生命と 10
チャイムのようなその音と共に、マリコの身体が白く淡い光に包まれた。それはほんの一瞬のことで、光はあっという間に融けて消える。同時にマリコは身体が軽くなるのを感じた。右手の焼け付くような熱さも身体のあちこちにあった痛みも消えている。
(これは!?)
マリコは恐る恐る右手を動かして顔の前にかざす。何発もの火矢に巻き込み、原型を留めていないだろうと覚悟していたその手が、傷一つない元通りの姿でそこにあった。軽く感じる身体には、動き回った後の疲れも魔法を使った後の魔力の喪失感も残っていない。
(レベルアップ……、っ!)
かざした右手を左の手の平で包み込んでその無事を確かめながら、マリコは何が起こったのかすぐに思い当たった。今の音も光もゲームの中で幾度も経験したもので、おそらくはどちらもマリコ本人にしか感知できない――他者には見えない――エフェクトなのである。
ゲームには「部分喪失」というルールがあった。これは一発で一定以上の割合のHPを失うダメージを受けた時に一定確率で発生し、この状態に陥った者は四肢のいずれかを失ったということになる。どこを失ったことになるかはランダムで決定され、失った部分に応じて大幅なペナルティを負う。
腕であれば命中率や武器ダメージなどが低下すると共に、片腕状態ということで両手剣や弓などの両腕が必要な武器が使用不可能になり、脚の場合は移動力や回避力などが大きく下がる。即死でこそないもののそれに大きく近付いた状態、それが部分喪失だった。
そしてさらに困ったことに、この部分喪失は死んでも――つまり行動不能になっても――リセットされない。行動不能状態からは治癒してもらうことで復帰できる。だが失った部分は治癒だけでは取り戻せないのである。
この部分喪失を解消する方法は二つしかなかった。
一つは回復系魔法の一つである修復をかけてもらうことである。これにはさらに、主要な街にある治療院で治療費を払ってNPCにかけてもらう場合と、修復を習得したPCに頼む場合とがあった。
治療院での修復は失敗がほとんど無い代わりにそれを受けるキャラクターの強さに比例して治療費が高くなっていく。対してPCによる修復は、スキルレベルが低いうちは成功率も低いが掛け直しは可能で、必要なコストが魔力(と受ける側の体力)だけであった。
部分喪失が致命的なペナルティを伴う以上、ずっと放置する者はまずいない。初心者のうちは死に戻って治療院、ある程度以上になるとパーティーに最低一人は修復が使えるメンバーがいる、というのが一般的だった。ヒーラー扱いされる最低条件が修復の習得ということでもある。
「マリコ」の修復はレベル二十であり、最早失敗することはほとんどなかった。マリコが生きてさえいれば何とかなると思える拠り所にはこれが占める割合が大きい。
もう一つの解消方法がレベルアップである。こちらは部分喪失に限らず各種のステータス異常も解消され、HPやMP・体力も最大値に戻る。言ってしまえば、身体が一旦完全な状態になるのである。これを狙って、クエストなどの途中でレベルアップして体調を万全にできるよう、始める前に経験値を調整するといったことも普通に行われていた。
そのレベルアップだが、特定の条件下にある場合、単にレベルが一つ上がったという以外の意味を持つことがある。今のマリコが正にそれだった。
レベルアップのエフェクトが消え去った後、視界の左下に開いた小さめのメッセージウィンドウ。そこに浮かんだ文字から、マリコは目が離せなかった。
――レベルが九十三に達しました。レベルリセットを行いますか?
その文字列の下で、「はい」と「いいえ」の選択肢が点滅していた。
百まであるレベルが九十を越えるとできるようになるレベルリセット。一旦できるようになれば、いつでも好きなタイミングでメニューから呼び出して実行できる。ただ、忘れられては困るという配慮からか、レベルアップ時には今のような通知が出る仕様になっていた。
これがゲームの上での話なら、リセットによって一旦大部分が失われるはずのレベル由来のステータスを惜しんで現状を維持するために、あるいは百レベルへの遠い道程を歩き続けるために「いいえ」を選ぶか、手早くレベルを上げて更なる高みを目指すために「はい」を選ぶかを考えればいい場面である。だが、今のマリコにとってこのメッセージは全く違う意味を持っていた。
真っ暗な闇に浮かぶ、石でできた四角いステージ。
女神ハーウェイ様。
このメッセージがゲームと同じ意味を持っているのなら、「はい」を選べば、あの巨乳女神様の待つ舞台へ行けるはずなのだ。そこで女神様と会話してレベルリセットについての説明を聞き、本当にリセットするかどうかを決めるのである。
メニューを開く方法があるのかないのかさえ分からない以上、「いいえ」を選べば次のチャンスは――今回のこれが間違いでないとした上で――九十四レベルになった時ということになる。今回レベルアップができた以上、経験値そのものは存在するらしい。しかし、その一レベルを上げるために必要な膨大な経験値はどうやったら、いつになったら溜まるのか。
マリコは左手で握りしめたままの右手の人差し指をゆっくりと立てた。
「大丈夫か!? マリコ!……さん」
そのマリコの肩が力強い手につかまれた。軽く揺すられて、中空で止まっていたマリコの視線が動き、肩をつかむその腕を辿る。辿って見上げたマリコの紫の瞳は、自分を見つめる今にも泣き出しそうな金色の瞳にぶつかった。
「バルトさん……」
「ああ。気分は、怪我は、身体は大丈夫か」
そう言うと、バルトは肩から手を離した。その手を目で追ったマリコは赤黒く染まった半分しか幅の無い拳を見て目を瞬かせた。後ろからも自分を呼ぶ声が聞こえて振り返る。
ミランダが、タリアが、里の皆が駆けてくる。何人かはトルステンたちの方へと向かっているのも見えた。そして、自分が元々何をするつもりだったのかをマリコははっきりと思い出した。改めてメッセージウィンドウに目を向ける。
(保留! 保留! 保留!)
ゲーム通りなら、この選択肢は選ばない限り消えないはずである。しかし、転移門の時のように意識しただけで動かれてもかなわない。
(消えるな、そこで待ってろ!)
マリコはそう強く念じて、ウィンドウがそのままそこにあるのを見届けてから顔を上げた。
豪快な地の文率で申し訳ありません(汗)。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。