172 怪我と生命と 9
戦闘です。残酷描写注意。
(ぐっ)
マリコは反射的に歯を食いしばる。避けようとしたマリコの、かわし切れなかった左腕がボスオオカミの顎に捉えられたのだ。引き伸ばされた時間の中、マリコはその二の腕が徐々に圧迫されて行くのを感じた。左腕を失って横たわっていたトルステンの姿が脳裏をよぎり、オオカミの目をにらみつけたまま、次に訪れるであろう痛みに対して身構える。
直後、このボスオオカミとの戦いの中で幾度も聞いた、ガチンという牙同士のぶつかる、つまり顎の閉じ切る音が聞こえた。
「ぎっ……っ!?」
しかし、覚悟した痛みはやって来なかった。挟み込まれた二の腕に掛かる圧力が増し、わずかに痛みを感じるもののそれだけである。ボスオオカミとにらみ合っていたマリコは思わずそちらに目を向けた。マリコの腕は肘を曲げた状態で丸ごとオオカミの口の中にあり、その長い鼻っ面の横から飛び出た二の腕が身体へと繋がっている。
マリコの二の腕は上下の歯茎に挟み込まれていた。本来そこにあるべき、咥え込んだ物を噛み切るはずだった牙が何本か失われている。マリコが何度も繰り出した迎撃がそれらを砕いていたのだった。
「ガアァッ!」
マリコと同じく事態に困惑していたのだろう。一瞬動きを止めていたボスオオカミが再び口を開こうとした。牙はまだ大部分が残っている。一旦放して食いつき直すつもりなのは明らかだった。
(まずっ)
武器を失った以上、今離れられては圧倒的に不利になる。格闘系のスキルもあるにはあるが、それらの技は基本的には体格の近い相手を想定したものであり、どこまで通用するか分からない。マリコは左手を広げ、そこに触れているヌメついた肉の塊を力一杯つかんだ。ブチブチと鈍い音を立ててマリコの指先がボスオオカミの固い舌の根元に食い込んでいく。
「ギャバァ!」
とんでもないところに爪を立てられたオオカミは吐き出すような声を上げて頭を振った。引きはがされないよう、マリコは必死に左手を握りしめる。両者の力にどれだけ差があるのかは分からないが、少なくとも体重に関しては圧倒的にボスオオカミの方が上であり、体格差で言えばオオカミが顔を上げた段階でマリコの両足は地面から離れる。マリコはじきに身体ごと振り回され始めた。
「ガッ、ハァッ」
「ぐうっ」
力を抜けば放り出される以前に肩か肘が抜けそうで、マリコは左腕に力を込め続け、右手で目の前にある毛皮をつかんで耐える。振り回すだけでは足りないと思ったか、次にオオカミは頭を縦に振ってマリコを地面に叩きつけようとした。マリコは身体をひねって真っ直ぐに着地し足腰のバネを使って勢いを相殺する。ズンと大地が響き、殺しきれなかった衝撃が牧草地にマリコの足型を穿つ。半ば苦し紛れに放ってくる前足の攻撃は蹴り返すことで辛うじて凌いだ。
(くっ、このままでは埒が明かな……あっ)
ボスオオカミはなんとかマリコを振り払おうと、地面だけでなく木の幹にもマリコの身体をぶつけにいった。マリコはその度に身体を捻じ曲げて足を使う。千日手に陥ったような状態に焦りを感じ始めた時、マリコはにらみあうボスオオカミの瞳にも焦りと恐れが浮かんでいるのを見て取った。そして同時にあることに気付く。マリコはそれを気取られないよう、振り回されながら機会を待った。
やがて、ボスオオカミはまたマリコを地面に向けて振った。それこそがマリコが待っていたものである。
叩きつけられる勢いを足を使って止め、ほんのひと時地面に立つ形になる。その瞬間、マリコはずっとオオカミの毛皮を握りしめていた右手を放した。弾かれるように肘から後ろに引かれたその右手が指先を伸ばした貫手の形を取る。驚愕に見開かれたボスオオカミの目に、マリコは無言でそれを突き入れた。眼球を突き破った貫手は手首まで埋まった。
「ギャン!」
「火矢」
初めて発せられたマリコの言葉によって瞬時に炎の杭が形作られ、作られると同時に炸裂した。オオカミの眼窩から炎が、マリコ自身の腕も巻き込んで吹き上がる。
「ゴガアァ!」
「があっつううぅ!」
自らの作り出した炎でマリコの右手が弾き出され、ボスオオカミは無茶苦茶に頭と身体を振りたてた。マリコ自身も熱さに声を上げる。マリコの手を染めたどす黒い赤は、どこまでがマリコの物でどこからがオオカミの物なのか分からない。
数日前、運動場でタリアたちと火矢を撃った後、結局マリコは自分の攻撃系魔法を試す機会を持てなかった。その理由がこの自分をも巻き込むこの世界での魔法の効果である。
ゲームにおいて、攻撃系の魔法は敵以外に影響を与えなかった。地面や周囲の建物などは、クエスト中に登場する物などの特殊な例を除くと基本的に破壊不可能である。また、味方にも魔法による攻撃は無効であった。敵味方が入り乱れるど真ん中に風刃や火球を打ち込んでも味方が巻き込まれることはなかったのである。
ところが、タリアに教わって放ったマリコの火矢はその余波が熱波となってマリコたちを叩いた。このことでマリコはゲームと現実の魔法の差に気が付いた。しかし、気付いたが故に誰かがいる状態の運動場でどんな威力が出るか分からない火球など他の魔法を試すことができなかったのである。
その後、注目されてしまったことで朝練などでも単独や少人数になることができないまま、マリコは今日を迎えてしまった。そして火球を試せない事態は今も変わらない。近くに倒れているバルトを巻き込まない保証がないからである。
それ故、今のマリコが「使える」のは火矢だけなのだった。マリコが習得している攻撃系魔法のうち最もスキルレベルが高いものがこれであるということは幸いであったのかもしれない。暴れるボスオオカミに振り払われないよう左腕を力一杯固めて、マリコは再び右手を貫手に構えた。
オオカミの目にそれを突き込み、痛む指が触れたもの――おそらくは眼窩の端――を思い切り握り込む。拳の先から飛ばすことを念頭に置いて、マリコは魔法を発動させた。
「火矢」
「ゲアァエァ」
ボスオオカミが狂ったように踊りまわる。右手を握りしめてさらに発動。
「火矢」
「グラアァオゥ」
ボスオオカミは倒れてなお暴れる。共に転がりながらなお発動。
「火矢」
「ガアアアァァァァ」
火柱がオオカミの頭部を貫いて向こう側からも吹き上がり、マリコの指が弾けて手が離れた。同時に左手も力が抜けて離れ、マリコとボスオオカミの身体が放牧場の草の上に別々に転がる。自分の手がまだあるかどうかさえ、マリコには分からなかった。ただそこに熱さだけを感じる。
飛びそうになるマリコの意識が熱さで引き戻される。左手一本でなんとか上体を起こしたマリコの目の前で、ボスオオカミの唸り声が途切れた。先ほどまでバタバタと動いていた尾が、力なく地面に流れる。
その途端、ピロリロリーンという軽やかな音が、マリコの耳に響いた。
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