171 怪我と生命と 8
戦闘です。残酷描写注意。
かすり傷では済まないレベルの傷を負わされてさすがに警戒したのか、唸り声を上げながらもボスオオカミは即座に掛かってくる様子を見せない。それは転がっているバルトを巻き込みたくないマリコにとって好都合だった。ボスオオカミがマリコという脅威を無視してまでバルトにとどめを刺しに行くとは思えない。つまり、今のうちにバルトから距離を取るべきなのだ。
右手の大剣はまだ構えない。その切先を下げたまま、マリコはじりじりと右に回り込んでいく。もちろんボスオオカミもじっとしてはいなかった。マリコの予想通り、己の傷ついた左前足側に――つまり動きにくい方――へ回り込もうとするマリコの動きを嫌い、それに追随して方位磁石の針のようにその場で身体の向きを変えていく。その様子に内心頷きながらマリコは戦いの準備を始めた。
「浄化」
手にしたバルトの大剣から血と脂が消え去る。刃こぼれや刀身に付いた傷こそ消えないものの、どす黒い赤に覆われていたそれは鋼の色を取り戻した。
「強化」
甦った鋼の色がその輝きを増し、傷ついて落ちた切れ味が補填される。耐久力も少しは上がっているはずだった。
「防護」
マリコの身体が見えない薄い鎧に包まれる。一定以下のダメージを防ぐに過ぎないこれでは、さすがに直撃を止められるとは思えないが気休めにはなるだろう。
(身体強化……は、この大きなオオカミが本当にフィールドボスに当たるのならやめておいた方が無難か)
身体強化は一定時間、筋力や敏捷度を上げる支援魔法である。ただし、代償として体力の消耗速度も著しく上がる。そのため、短時間で終わる戦闘であれば問題ないのだが、長時間になると体力が尽きる恐れが出てくるのだ。
対して、ゲームでのフィールドボスは一般のモンスターの数倍から数十倍、場合によっては百倍を超える耐久力、即ちHPを備えていることがある。目の前のボスオオカミが灰色オオカミの百倍のHPを持っているとはさすがにマリコにも思えなかったが、それでも身体の大きさから考えると十倍は見ておくべきだった。相手のHPを削りきる前に自分の体力が切れたのでは目も当てられない。
ゲームにおいて敵を倒すということは、HPをゼロにすることだった。クリティカルヒットも大ダメージとしてカウントされ、それらのダメージを積み重ねて相手のHPを越えれば勝ちである。ただし、現実にはそうではないことにもマリコは気付いていた。HP以上のダメージを与えなくても急所を突けば生き物は死ぬ。そうでなければ、短剣の一振りで大野豚が倒れることはなかっただろう。
もっとも、この俊敏そうなボスオオカミはそう簡単に急所を攻撃させてくれそうには見えなかった。それこそHPを削りきるか、少なくとも急所を狙えるところまでその力を削がなければならないだろう。それにどれだけ掛かるか分からない以上、短期決戦に賭けるのは危険だとマリコには思えた。
やがて、ボスオオカミを中心に弧を描くように右へ右へと歩を進めていたマリコは足を止めた。オオカミの左側、三十メートルほど離れた位置にバルトが横たわっている。それを視界の端で確認した後、マリコは空いている左手をボスオオカミに向けた。
再び、戦いの幕が上がる。
「火矢」
巻き込まれる恐れのある者はおらず、林の奥にでも撃ち込まない限り火事の心配もない。春の陽気に青々とした牧草は即座に燃え上がったりはしないだろう。マリコはようやく使える状況になった攻撃魔法を放った。
マリコの腕ほどの炎の杭が尾を引いて飛ぶ。ボスオオカミは目を剥いて左に飛び退いた。灰色の毛皮を掠めた杭はすぐ後ろの地面に食い込んで轟音と共に火柱を上げる。その熱気にしっぽをあぶられたオオカミは、文字通り尻に火が点いたようにマリコに向かって駆け出した。
「さすがに避けられますか」
誰かが切り結んで足止めしている状態なら当たっていたであろう。だが、今マリコは一人だ。火矢を当てるにはまだ相手が元気過ぎる。マリコはその元気を削るべく大剣を構えた。
突っ込んでくるボスオオカミを寸でのところでかわす。大野豚を遥かに上回る体重の突進を正面から受け止めるのは無謀以外の何者でもなかった。すれ違いざまに振るった大剣でわずかに傷を付ける。両者の短くも長い戦いはこうして始まった。
◇
「ガアッ」
「迎撃!」
自分の顔とほぼ同じ高さで迫り来る牙にマリコは大剣を叩きつける。攻撃を相殺されたオオカミの牙の欠片が飛び、大剣の刃こぼれがその数を増した。
「逆撃!」
「ゴォア!」
「がっ!」
返す刀で斬り付ければ、同時に相手の繰り出した爪がマリコの腹を薙ぐ。オオカミの肩口に浅い切り傷が刻まれ、マリコのエプロンに何本目かの裂け目が入った。
ボスオオカミの突撃を徹底的に避け続けたマリコに、焦れたオオカミは近距離からの攻撃へと切り替えたのだった。間合いが剣の長さ分しかないマリコにとってもそれは望むところではあったが、双方息を吐く暇もなく切り結び続けることになり、ボスオオカミの意外な手数の多さと身軽さに大技を出しあぐねていた。
突撃を放つには必要な距離を取るのが難しく、仮に撃つところまで行ったとしても始めにマリコがオオカミの突進を避けたように、逆にかわされる可能性が高い。一発当てればかなりのダメージを与えられるであろう強打は、出掛かりの隙を見逃してもらえるとは思えなかった。
それでも足を中心に小さな傷を重ね、ボスオオカミは徐々に機動力を奪われつつあった。もちろん、マリコも無傷ではない。牙の直撃こそ避けているが爪の攻撃は何発ももらっている。頬には引っかき傷が走り、メイド服のおかげで流血こそしていないものの胴体や脚には打撲によるダメージが残る。代わりに白いエプロンと黒いスカートには幾筋かのスリットができていた。ホワイトブリムがまだ頭に載っているのが奇跡的とも言える。
(もうちょっと足を潰したら距離を取って……)
「ガアァッ」
マリコがそう考えた時、ボスオオカミがまた牙を剥いた。
「くっ、迎撃!」
もう何度目かというスキルを発動させて、マリコはそれを迎え撃つ。鋼の刃が白い牙に叩きつけられたその時。
バルトの大剣が、その刃の根元で砕けて折れ飛んだ。連戦による酷使で傷付き、強化によって少しは補われていた耐久力が、遂に限界を迎えたのである。
全てがスローモーションのようにゆっくりと進むように感じる視覚の中、勢いをそのままに迫る牙に、マリコは残った柄を手放して反射的に身体を右に倒した。正面に見えていたオオカミの顔が徐々に左へとそれ、その左目とマリコの視線がぶつかる。
その目が嗤っていた。そう感じると同時にマリコの左手が何かヌメヌメした生温かい物に触れる。
(舌!?)
マリコがそう思った瞬間、ボスオオカミの顎が閉じた。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。