170 怪我と生命と 7
戦闘です。残酷描写注意。
最早死に体であるにも係わらずなおも大剣を構えるバルト。その左肘からは、赤い雫が今も絶え間なく滴り落ちていた。
「治……いや、まずい!」
彼の背中に向かって駆け出したマリコはその様子を見て、唱えかけた治癒を中断した。どれだけ戦い続ければそうなるのかマリコにも想像が付かなかったが、バルトはその生命力の限界以前に、体力の限界に近付きつつあることが見て取れたからである。
治癒による治療は、傷を治す代償にその度合いに応じて体力を消耗する。ゲームでは体力もHPと同じく数値がゼロになったからといって死ぬわけではなかった。活動するに足るだけの体力が無くなったということで行動不能になるのだ。そして体力が低下すると死に至る前にまず行動不能になるという点はこの世界においても同じである。
つまり、今のバルトにいきなり治癒を使うと、怪我が治る代わりに体力が底を突いて動けなくなる恐れがあるのだ。目の前に相手がいる状態でそんなことになれば殺してくれと言っているようなものである。できることなら、治癒を使う前に少しでも体力を回復させるべきだった。
ところが、その体力を回復する魔法である体力回復は、戦闘中でもバンバン飛ばせる治癒ほどお手軽ではなかった。安静にしている相手に接触して使用する魔法なのである。
そもそも、強力な攻撃を一発喰らったら激減するHPと違って、体力は一瞬で大きく減るような性質のものではない。動き続け、あるいは戦い続けていればその激しさや時間の長さに応じて徐々に減っていくものなのである。ゲームにおいては、HPなりMPなりが尽きて戦いが決着する前に体力が限界を向かえることなど、長期間食事を摂っていないといった特殊な場合を除けばまず有り得なかった。
では一体いつ体力回復を使うのかというと、戦闘と戦闘の合間である。ダンジョンに潜った場合や一部のクエストの途中など街に戻らずに戦い続けなければならない場合に、一戦終わった後の休憩中や移動中に次の戦いに備えて使われるものだった。これは魔力の譲渡もほぼ同じである。
(この人は一体どれだけ踏み止まって……いや、今はまず)
「戦場の咆哮!」
バルトを死なせないためには、先にボスオオカミの方を何とかするしかない。その矛先を己に向けるべく、マリコは再び吠えた。
身構えたバルトに今にも飛び掛ろうとしていたオオカミはマリコの咆哮にビクリと一瞬動きを止め、駆けてくるマリコの方へと向き直る。後ろから響いた声に振り返ったバルトはそこにマリコの姿を認めて目を見開いた。戦場の咆哮に捉えられたボスオオカミは最早そんなバルトを気にする様子も見せず、そのままマリコに向かって駆け始める。
(狙うのは前足)
対するマリコは、走りながら先ほどと同じく柄の先を前、刃を後ろに構えた。バルトたちが戦ったことでボスオオカミも全くの無傷というわけではないが、見る限り特に弱った様子もなく、おそらくは力でもスピードでも自分を上回る相手である。まずはその機動力を少しでも削がなければ勝負にもならないと思われた。
一人と一頭の距離はあっという間に縮まり、マリコの胴体くらいは軽く噛み切れそうな、牙の並んだ大口が真っ向から迫る。マリコは身を沈めてその顎を紙一重でかわした。牙同士がぶつかるガチンという音を耳元に聞きながら、勢いの乗った刃をボスオオカミの前足に叩き付ける。
ガッという音と共に大鎌の刃がボスオオカミの左前足に食い込む手ごたえをマリコは感じたが、次の瞬間それは唐突に消え去った。大鎌の柄が乾いた音を立ててへし折れたのである。いくら丈夫に作られた実用品といっても大鎌は本来、大型の草刈り鎌に過ぎない。掛かる力の大きさに耐え切れなかったのである。いきなり抵抗が無くなったことでマリコの身体が一瞬バランスを崩してたたらを踏む。
「ガアアァッ!」
「くっ」
それでも大鎌の刃は肉を裂き骨まで達していた。ボスオオカミは前足にそれを食い込ませたまま再び牙を剥く。マリコはとっさに折れた柄を横に構え、辛うじてそれを受け止めた。ズンと衝撃が来てブーツの踵が地面にめり込む。マリコとオオカミの力が拮抗し、牙の間に噛み込まれた木の柄がミシミシと不穏な音を立て始めた。
(まずい!)
マリコがそう思った瞬間、声が響いた。
「うぅらああぁっ!」
動きを止めたボスオオカミに向かって、大剣を槍のように脇に構えたバルトが横から突っ込んできた。身体ごとぶつかる全力の突き。それは見事にオオカミの左前足、肘に近い部分を捉えて切り裂いた。
「ギャン!」
さすがのボスオオカミも悲鳴を上げて飛び退り、再び傷つけられた足を庇いながらそのまま二人から大きく距離を取った。一方のバルトは走りこんだ勢いのままマリコの前を通りすぎ、突きの体勢のまま牧草地に倒れこむ。うつ伏せに倒れた身体が地面で跳ねてゴロリと仰向けに転がった。
「バルトさん!」
ボスオオカミに注意を向けたまま、マリコはバルトに駆け寄った。オオカミは二人から離れた後、足に食い込んだままの大鎌の刃をはずそうとしているようで、今すぐ向かって来る様子はない。バルトは転がったまま、傍らに膝を突いたマリコを見上げた。
「ぶ、無事か?」
「無事かって……」
それはこちらのセリフだと、マリコはつい呆れた声を上げた。誰がどう見ても無事でなさそうなのはバルトの方なのである。その血塗れの身体を見回し、倒れ込んでなお大剣を放さないその手に目をやったマリコは目を見開いた。
「バルトさん! その手は!?」
槍のように右手で抱え込んだ大剣。その刀身に添えられたバルトの左拳は幅が半分しかなかった。残った親指と人差し指だけが、赤く染まった刃に触れている。
「あ? ああ、奴の牙を受け損ねて持っていかれた。他の傷は大した事はない」
遠目に見たバルトの動きの不自然さをマリコは思い出した。両手剣を振るう時、その軌道を決めるのは左手である。その手がこの有り様ではどうしようもなかっただろう。その状態でどれだけ剣を振るっていたというのか。マリコは黙ってバルトの身体に手を当てた。
「待ってくれ、今治癒は……」
「体力回復」
「っ! ふう」
一瞬身を固くしたバルトは息を吐いてマリコの魔法を受け入れた。身体の内側から暖かさが湧き出てくるのを感じる。バルトの体力が緩やかに回復し始めたのだ。ただし、動き回ればこの効果は途切れてしまうことをバルトは知っていた。
「これを」
バルトは握った大剣の柄をそっと持ち上げる。
「お借りします」
それを右手で受け取ったマリコは、同時に左手をバルトに当てた。
「治癒」
わずかに回復した体力を使い切らないよう、出血を止める程度に絞り込まれた治癒がバルトを包む。いずれにせよ、失われた指は治癒ではどうにもならないのだ。
魔法の発動を見届けたマリコは、手にした大剣に目を向けた。ほんの三日前、研ぎ直されて輝いていたその刀身は、今は大小の刃こぼれと傷と赤黒い血糊に覆われている。その、バルトの覚悟を握ったまま、マリコは立ち上がった。
「悪い。頼む」
「はい」
横たわったまま放たれたバルトの言葉に応じた後、マリコは倒さねばならぬ相手に向かってゆっくりと足を踏み出した。骨に食い込み締まった肉に止められていた大鎌の刃をようやく抜き取ったボスオオカミがそこで待っている。
「俺、かっこわる……」
聞かせるつもりはなかったのだろう、バルトの小さなつぶやきがかすかにマリコの耳朶を打った。そんなことはないと思いますよ、と心の中で答えたマリコは左手で柄尻を握りこむ。そこにはバルト自身の血が染みこんでいるはずだった。
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