168 怪我と生命と 5
「あれは!?」
マリコは思わず声を上げた。斜面の起伏や途中に生えた木の向こう側に見える、大きな剣を持ったそれは確かにバルトのようだ。他の四人の姿がここからでは見えないのも気にはなるが、問題なのはバルトが立ち向かっている相手だった。
姿形は灰色オオカミとほぼ同じだが遥かに大きい。踏まえた前足の肩が、対峙しているバルトの頭より上にある。先日マリコたちが狩った大野豚どころではなかった。
しかもおそらくどこかを負傷したのだろう、バルトの動きがどこかぎこちない。対する相手は先ほどまでの灰色オオカミの群れのように最早バルトを敵と見なしていないようだった。バルトの剣をかわしては挑発するような動きを見せる。
そこまでを見て取ったマリコはカミルたちを振り返った。
「お、おねっ、ちゃっ、うっ」
ハザールの手を引いたままのアリアがしがみついてくる。しゃくりあげるせいでまともな言葉が出ていなかった。マリコは黙って二人の背中に手を回した。アリアとハザールは無事だが大人たちはそれぞれかなりの傷を負っており、三頭の犬は瀕死と言っていい状態である。放っておけるはずもなく、マリコは二人を抱えたままそちらに向かって右手を掲げた。
「治癒円環!」
カミルや犬たちを囲むように、直径五メートルほどの白い光の円が一瞬浮かんで消えた。治癒円環は、一定時間、円形の範囲内にいる者にそれぞれ数回分の治癒に相当する回復を継続的に施す中級の魔法である。一回に消費する魔力が多く、スキルレベルが低いうちは効果範囲が狭いため、ゲームでは使いどころが難しいと言われた魔法だったが、今のような場合には効果的だった。
男たちの傷が治り始め、ラシーの腹から出ていたものもビデオを逆再生するようにゆっくりと内側へと引き込まれていく。マリコも骨折した相手に治癒を使った時に気が付いたのだが、折れた所が曲がったままくっついたりすることはない。魔法による回復はやはり単純に治癒を促進するだけではないようだった。
「行かれよ、マリコ殿。ここは私がなんとかする」
効果が出始める様子を見届けたマリコが顔を向けると、ミランダは前を見据え刀を構えたまま言った。目の前にはまだ数頭のオオカミがいるのである。足を刈られて今はほとんど動きを止めているとはいえ、油断していい相手ではない。迂闊に近づけば噛み付きにくるだろう。
「ですけど……」
「無理に私だけでとどめを刺そうとは思わぬ。じきにタリア様たちが、ああ来られたようだ」
オオカミたちから注意をそらさずにちらりと里の方を見て言ったミランダにつられて、マリコもそちらに目を向けた。タリアを先頭に十数人が柵のところの門をくぐり抜けているところだった。
「ここが片付いたら我等も追う故、カリーネ殿たちを!」
「分かりました」
マリコはアリアたちから手を離すと、二人の頭を一撫でして身を翻した。
「行きます」
大鎌を持ち直してマリコは走り出す。その視線は、再びバルトと巨大なオオカミをとらえていた。
(あれはまさか、フィールドボスなのか!?)
フィールドボスとはゲームに出てくるボスモンスター、いわゆるボスの一区分である。RPGでボスと言えばダンジョンの最深部で待ち受けているイメージが強いが、コンピュータRPG、殊にMMORPGの場合、ダンジョン以外にもボスが設定されている場合がある。
通常のモンスターの群れを率いているものや一定周期でポップアップするものなど設定は様々だが、ダンジョンや屋内ではなく一般エリア――つまり野外――を歩いている時に出くわすボスモンスターがフィールドボスあるいは野外ボス、エリアボスなどと呼ばれるものである。
(もしあれが本当にフィールドボスなら、まずいかもしれない)
MMORPGのプレイヤーキャラクターというものは原則的に、超人と呼べる存在にはなれるかも知れないが、決して無敵には成り得ない。もしもキャラクターが無敵になって自分一人で全てを解決できるのなら、それはもうMMO(大規模多人数参加型オンライン)である意味も必要もないだろう。
一人ではどうにもならないことがある。他人の力を必要とする場面がある。それがMMOをMMOとして成立させるための最低条件なのである。
その「一人ではどうにもならないこと」の端的な例がボスモンスターである。もちろん、一人用のクエストやダンジョンの最後に現れるボスモンスターのように、一人で対処できるように調整されたものも無い訳ではない。だが、大半のボスモンスターは最低でもパーティー単位で挑んでバランスが取れるようにデザインされているものなのだ。
(始めの村の近くに出るフィールドボスはキツネだったな)
ゲームにおいてプレイヤーキャラクターが最初に降り立つ村。そのすぐ外のフィールドに出現するボスは、三本の尾を持つ巨大なキツネだった。もちろん、作りたてのキャラクターでは何人いようと敵う相手ではない。一発もらっただけでHPが消し飛んで終わりである。
中堅どころならフル装備の五、六人パーティーで挑んで勝てるかどうか、というところだった。マリコのいたギルドのメンバーには一人で倒した者もいたが、マリコ自身には一人で挑んだ経験はない。
対して、今目の前に見えているのは、最前線であるこの地で最も強いと言われるバルトの組が勝てない――ように見える――相手である。探検者の全てを知っているわけではないが、バルトたちが中堅以下ということはないだろう。そんな相手を自分一人でなんとかできる自信はマリコにもなかった。
(それでも)
黙って見ていることなどできようはずもない。追い散らされた牛や羊が遠くの柵の前に固まっているのを視界の端にとらえながら、マリコは駆けた。
まだ続きます。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。