167 怪我と生命と 4
戦闘です。残酷描写注意。
アリアは父の背中越しに見える絶望的な光景に今にも口をついてあふれ出しそうな嗚咽を、弟の手を握りしめることで辛うじて押さえていた。一方のハザールは、姉に取られた左手にその身の震えを伝えながらも、手にした木の棒を構えて自分たちを取り囲むオオカミをにらみつけている。
カミルの左腕は既に力なく垂れ、噛まれた足からは今もダラダラと血が流れ続けていた。鐘を聞いて駆けつけた里の男たちも似たような有り様である。カミルを追っていた灰色オオカミははぐれなどではなく、群れの先陣だったのだ。畑の方からは見えなかった山陰から群れが走り出てきた時点で、脅かして追い返すどころではなくなった。
オオカミたちが足を狙ってくると分かっていても、相手の方が数もスピードも上では対処しきれるものではない。皮肉にも途中から、オオカミの方が獲物をもてあそぶように手加減し始めたおかげでまだ誰も倒れていないに過ぎず、皆カミルと同様足をやられ、苦痛に顔を歪ませながらも何とか剣を取って立っていた。
アリアたち姉弟が今まで無傷でいられたのは、オオカミたちにとって脅威にならないと思われたということももちろんあるが、二人を庇った大人たちと何より犬たちの決死の奮戦の結果である。三頭の犬たちは、自分たちよりも大きく数も倍以上いる灰色オオカミの群れに果敢に立ち向かった。
しかし、物理的な戦力の差というものは明確にして残酷である。何頭かに手傷を負わせる代償に犬たちは満身創痍となった。既に二頭が血溜まりに倒れて動かない。ふいごのように動く身体がまだ息があると訴えているが、とどめを刺すまでもなくじきにその生命の火は燃え尽きるだろう。
唯一まだ顔を上げているラシーもまともに動ける状態ではなかった。しかし、前足を噛み砕かれ、喰い破られた腹から内臓をはみ出させながら、それでもなお敵に向かって牙を剥き唸り声を上げることを止めない。自分が力尽きれば次は主人が死ぬ。ラシーはそれを本能的に知っていた。
「ガウッ」
「ひっ」
「くそっ、このっ!」
やや窪んだ形の崖を背にしたアリアたちを嬲るように、前をうろつくオオカミが時折飛び掛る素振りを見せ、姉弟に悲鳴を上げさせる。カミルは無理矢理剣を振るってそれを退け、へたり込みそうになるアリアに半分だけ顔を振り向かせた。
「しゃがみ込むな! いつでも走れるようにしておけ。なあに、父ちゃんが絶対、お前らを逃がしてやるからなっ!」
身体のあちこちから血を流しながら、それでも剣を構えてそう言った父の笑顔を、アリアは死ぬまで忘れなかった。そして、その後起こった出来事を、アリアは死んでも忘れないだろうと思った。
「うううぅぅらああああああああああああぁぁぁぁぁぁ!」
最初に、声が聞こえた。麓の方、今アリアがただひたすらに帰りたいと願っている里の方からだ。
聞き覚えのある、若い女の人の声。にも関わらずその声は太く力強く、地の底から響いてくるかのようにビリビリとアリアの身体を震わせた。目の前のオオカミたちが一瞬身体をビクリと硬直させ、次いで声のする方へと一斉に顔を向けた、その直後。
バシャアッという破裂音と共に、アリアたちの一番番近くにいたオオカミ――先ほどちょっかいを掛けてきたやつだ――が、縦に回転しながら吹き飛んだ。そのまま崖の斜面に叩きつけられたオオカミの身体はそこに貼り付けられたように一度止まった後、ズルズルと滑り落ちた。最早起き上がる気配もない。当然であろう。その身体にはもう、頭が付いていなかった。
何が起こったのか理解できず、人もオオカミも動きを止めた中。
(風が……)
アリアがそう感じた瞬間、鋼の輝きを伴い白と黒を纏った旋風が、オオカミの群れの中を吹き抜けた。
「「「「ギャン!」」」」
オオカミの悲鳴と血煙が上がる。
(おねえちゃん!?)
辛うじて旋風の動きを追ったアリアは、その先にマリコの姿を認めた。ついさっき、頭を吹き飛ばされたオオカミが叩きつけられた崖。ほんの瞬きほどの間だけ見えたマリコは、その崖の斜面に真っ直ぐ足を着け、大鎌を後ろに構えて腰を落としていた。アリアがこれまで見たことのない、硬い――あるいは冷たい――表情を顔に貼り付けたマリコは一瞬で掻き消え、また旋風が吹き抜ける。
再び悲鳴と血煙が上がり、その先に現れたマリコはサッと身を翻すとアリアたちのいる方へと跳んだ。カミルの前に降り立つとアリアたちに背を向けて立ちはだかる。何者も通さぬという意志を漲らせ、傾きかけた陽を受けて輝いているようにも見えるその姿に、アリアは畏怖の念を抱いた。
「無事ですか、皆さん!?」
しかし、そう言って振り返ったマリコは、口調こそ差し迫った雰囲気であるもののいつもの表情に戻っており、アリアが感じた畏怖は春の雪のように解け去っていった。
マリコの背中が皆に一応の安堵を与える一方、目の前には阿鼻叫喚の血の海が広がっていた。大鎌を手にしたマリコはそれを振り回すのではなく、柄の先端をやや左前に上げ、刃は右後ろに構えた状態のまま群れの中を突っ切ったのだ。速度と切れ味に任せてオオカミたちの足を刈れるだけ刈り取ったのである。二肢以上を刈られたものは最早まともに立つことさえ叶わず、血を噴き上げながらのたうち回っていた。
十頭いたオオカミの内、マリコの刃から逃れられたのはわずか一頭。その残った一頭が、後ろを振り返ったマリコに飛び掛った。
「後ろだ、マリコ殿!」
聞こえた声に、マリコは初めて大鎌を振るった。その切っ先が見事にオオカミの横腹をとらえ、皮と肉を切り裂いてその身体に刃が突き刺さる。
「ガアッ!」
しかし、大鎌の刃は片刃であり内側にしか付いていない。オオカミの腹を横から串刺しにした刃はそれ以上その身体を切り裂く事無く、その峰でオオカミの突進を受け止めることになった。
大鎌の柄がたわみ、マリコは軸足を踏ん張り全身のバネを使ってそれを受け止める。マリコと同等か、もしかするとそれ以上の重量を持った身体が空中に縫い止められた。そこでマリコは、すかさず大鎌を一気に引く。
「ゴガア!」
鋭い刃がオオカミの胴を内側から切り裂き、大量の血と内圧から解放された中身がぶちまけられる。それに一瞬遅れて地面に落ちたオオカミはビクビクと二、三度身を震わせた後、すぐに動かなくなった。
「助かりました、ミランダさん」
大鎌を構え直しながらマリコが言った。斬られた足が一本だけだった二頭が逃げ出し始めていたのだ。倒れたオオカミも片をつけなければならない。
「私は何もしていない。今追いついたところだ。それよりこやつらを早く……」
「いや待ってくれ。まだなんだマリコさん。こいつらはただの先触れだ」
返事をするミランダにカミルが割って入った。痛みに顔をしかめながら山の方を指差す。
「あそこで、バルトくんたちが……」
「バルトさん?」
「バルト殿?」
カミルが指す方を二人は見た。小屋のあるところを過ぎなければ見通せない、山の裏側。放牧場の奥の端に近いそこに、剣を振るう小さな人影が見えた。
続きます。
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