166 怪我と生命と 3
山の斜面に広がる放牧場。家畜舎と小屋が並ぶ位置から少し奥に、山肌が切り立って岩壁になったところがある。その前で寄り添おうとする豆粒のような何人かの人影と、それらを追い立てるように動く明らかに三つよりも多い灰色の豆粒がマリコの目に映った。
(囲まれている!?)
マリコは手にした大鎌を強く握り直すとさらに速度を上げた。死という文字が頭を過ぎる。それを呼び水として全ての音が彼方へと消え去り、かつて聞いた声が否応なしに記憶の底から引きずり出される。
――ていたんですがいきなり胸を押さえて
――管破裂による大量内出血のショックで
――便に搭乗していたと確認された方々は
予想もしなかった、手の届かないところで。自分を置いて去って行った人たちの顔が、顔が、顔が顔が顔が顔が。マリコの脳裏に浮かんでは流れて消えていく。無念と後悔と絶望と諦観をミキサーにかけてできあがった血の色をした泥が口からあふれそうになる。
(そんなことは許さない、そんなことは許さない、そんなことは許さない)
そう頭の中で渦を巻く熱の出所に思い至ったマリコの目の前に木の壁が迫る。
◇
里の東側の畑と放牧場は丸太を横木とした頑丈な柵で隔てられていた。丸太の間に隙間を設けて外を見通せる作りになっているこの柵は、マリコたちが野豚狩りに行った里の南側のような土壁でこそないが、高さは南側と同じく二メートルほどあり門も作られている。もちろん放牧場の外側にも柵はあるがこれほど高くはなかった。つまり、放牧場は形としては一応里の外ということになっているのである。
ナザールの里が成長途中の新しい里であることがこの二重構造を作り出していた。里のこちら側では、山側を少しずつ切り拓いて放牧場を拡げていき、ある程度拡がったら今度は柵や門を少し前に立て直す。そうすることで里自体を段々と大きくしていくのである。
当然ながら、周囲の山や森にはオオカミなどの肉食動物も存在する。放牧場はそれらが里の中に直接入り込まないための緩衝地帯でもあり、そこで飼われている牛や羊は家畜であると共に、人が襲われる前に代わりに襲われてくれる存在でもあるのだった。
もちろん、簡単にそうならないようにカミルや犬たちがいるのであるが、彼らの役割は侵入者を撃退することではない。手に余る事態になった際に早急に皆に知らせ、被害を最小限に留めることが重要なのである。全ての脅威に対抗しようとするには手練の探検者を常時張り付けておきでもしない限り無理な話だった。
◇
その柵の手前で踏み切って跳んだマリコは右手に大鎌を握りしめたまま左手を柵の上に突いた。そこを支点に、黒いスカートをなびかせた身体が真っ直ぐに伸びたままぐるりと回転する。
「マリコさん!?」
名を呼ばれてマリコの耳に音が戻る。身体が宙に浮いた瞬きほどの間にマリコの目は柵の内側にいた人たちを捉えた。柵の隙間から心配そうにうかがう年配の人たちや今にも飛び出して行きそうな子供たちを抑える、おそらく母であろう女の人たち。許さないのは自分だけではないのだ。その彼らを残して、マリコは柵の向こう側へ降り立った。犬の吠える声が聞こえる。
(まだ、皆生きてる)
先ほどまでより少しだけ大きくなった豆粒を見て、何故かマリコは確信する。
「行ってきます」
柵の中を一度振り返ったマリコは、それだけ言うと再び駆け出した。
「マリコ殿は!? ああ、もうあんな所へ」
すぐ後にやってきたミランダはマリコの後姿を発見すると柵に手を掛け、こちらも難なく向こう側へと降りた。
「じきにタリア様たちが参られる。門を開けられるようにだけしておかれよ」
ミランダはそれだけ言い置いてマリコの後を追った。
◇
近づいていくにつれ、マリコにも状況が見えてきた。幸いアリアとハザールは無事のようだ。泣きそうな顔をしているがどちらも気丈に立っていた。子供たちを後ろにかばった大人たちは剣こそまだ構えているものの反撃する様子はない。皆どこかしらやられたらしく赤い色が見えていた。怪我という点ではおそらく犬たちが最もひどい。まだ吠えたり唸ったりはしているものの、へたり込んでいるのも見える。
(これは、遊んでいるのか!?)
崖下のようなところにカミルたちを追い込んだ十頭ほどの灰色オオカミの群れは、彼らを取り囲むようにうろついているものの、時折ちょっかいを出すだけで積極的に攻撃しようとしていなかった。最早脅威にならないと踏んでいるのだろう。風の具合か、まだマリコに気付いた様子もない。
マリコはやや速度を落とした。許さないと叫ぶ声はまだ身体の内に渦巻いていたが、このまま突っ込んではだめだという声も聞こえるような気がするのだ。それでは犠牲者が出る、と。それは自分の中の冷静な部分が言わせているのか、「マリコ」としての経験が言わせているのか、自分でも分からなかった。
(こっちに注意を向けさせておいて、何かで先制して混乱させる……)
マリコは反射的に飛び出してきたことを悔いたが、間に合わなかったかもしれないことを考えれば今のまま何とかするしかないと思いなおした。身を屈めて所々に生えている背の高い草に隠れながらゆっくりと近づいていく。オオカミに気を取られて、アリアたちもまだマリコに気付かない。
(弓か、せめて投げつける石か何か……)
巻き込む可能性を考えると攻撃系の魔法を打ち込むわけにはいかなかった。移動しながら周りを見回してみたが、放牧地であるが故に手ごろな石も見当たらない。群れまでの距離はもう百メートルを切った。
(石……、あ!)
マリコは急いでアイテムボックスを開くとそれを取り出した。それは、ここにやって来たその日にアイテムボックスに入れ、なんとなく仕舞ったままになっていた、レンガほどの大きさの石っころ。捨てようと思い出すのはいつも室内で、捨てる機会がないまま今までずっとそこに入っていたのである。
マリコは大鎌をそっと傍らに置くと石を握り投擲の構えを取った。投げた後にやることは決まっている。
(戦場の咆哮)
ゲームにおける戦場の咆哮は、タンク役御用達のスキルだった。その咆哮を聞いた――即ち効果範囲内の――敵の注意を自分に引き付ける、つまり敵の攻撃対象を自分に切り替えさせるという、いわゆるヘイト管理のためのスキルである。併せて、自分よりある程度以上弱い相手の戦意を削ぐ効果も持っていた。
先ほどから一番前でカミルたちを煽っているオオカミに狙いを定め、手にした石を思い切り投げた。投げると同時に大鎌をつかんで立ち上がる。
マリコは吼えた。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。