165 怪我と生命と 2 ★
金属を打ちつけるような音はその三度だけで止んだ。
「鐘?」
「えっ!? 今の……」
「あの音は放牧場か!?」
マリコは聞き慣れぬ音に首を傾げ、カウンター越しに話をしていたサニアが顔を強張らせる。給仕をしていたミランダは頭上に飛び出た耳をピクリと震わせて顔を上げた。
緊急時に打ち鳴らす青銅製の鐘板は里の東西南北と宿屋の物見台の五カ所にあり、どこの物が鳴っているのか区別できるようにそれぞれ違った高さの音が出る物が設置されている。東の物は放牧場の家畜舎と並んで建っている小屋の脇にあった。
この鐘は緊急度や危険度が高いほど鳴らす回数が増えることになっている。カンカンカン、カンカンカンと三連打を繰り返すのは緊急度が高く、その上には鐘を連打し続ける「全員直ちに宿屋へ逃げ込め」しかない。それが三連打され、しかし一回で止まったことにその場にいた者たちは顔を見合わせた。
「誰か! 上……」
「上から見てきます!」
「ん」
厨房にいたタリアが指示を出し切る前に、たまたま傍にいたジュリアとエリーがそう言って階段へと駆けていった。放牧場は里の東側の山あいの草地と林をある程度切り拓いて牧草地とし、その周囲を柵で囲った形になっている。屋上の物見台まで上がれば山陰や木陰になっているところまでは無理でも、少なくとも家畜舎や小屋は見えるはずだった。
ものの一分と経たないうちに、ゴトンゴトンと誰かが階段を駆け降りる音が聞こえてくる。段を飛ばしながら急いで降りてきたらしいエリーが飛び降りるように一階に到着するのと同時に、開け放たれていた宿の入り口から作業着の上下を身に着けた三十歳くらいの女性が転がるように駆け込んできた。
「灰色オオカミが!」
「灰色オオカミ! 複数確認、最低三!」
女性とエリーの口から同じ動物の名が放たれ、食堂内に緊張が走った。サニアの喉からヒッという小さな声が漏れ、タリアの眉間に縦ジワが刻まれる。
「三頭!? はぁっ、はぁっ。じゃあ、はぁ、うちの人や皆が……」
エリーの言葉に対して一番に声を上げたのは、息を切らせて座り込んだ先ほどの女性だった。荒い息をつきながらも、彼女は見てきたことを話した。
彼女は家族や同じ組の人たちと転移門の東側、門と放牧場の間にある畑で刈入れ作業をしていたという。犬の吠える声に気付いた彼女たちが畑と放牧場を隔てる柵越しに目にしたのは、小屋に向かって必死に走るカミルとその後を悠然と追う一頭の灰色オオカミの姿だった。
彼女と一緒にいた男たちのうち、年寄りと子供を除いた数人が直ちに腰の剣を抜いてそちらに向かった。残った者は周囲に知らせに走り、女たちの中で一番足の速い彼女が宿屋を目指したという。彼女は走ってくる途中で鐘板の音を聞いた。音が三度で途切れたのは、そこで追いつかれたか危なくなって逃げたかのどちらかだろうという。
一部を除いて、大方の里の者は一人で灰色オオカミを倒せるほどには強くない。それでも数人で立ち向かえば大抵の場合は灰色オオカミの方が逃げる。野生の動物は基本的に臆病であり、よほど飢えているといった事情がない限りは自分の身の安全を優先するからである。
故に、数人でカミルを助けに向かった男たちの行動は間違いではない。ただし、相手にも仲間がいる時には事情が違ってくる。仲間がいれば勝てると踏んだ場合や仲間を守らねばならない場合には逃げずに向かって来ることがあるのだ。それが人も含めて群れは恐ろしいとされる所以の一つである。
「こ、子供たち、アリアとハザールはっ!?」
それまで半ば呆然としていたサニアが、突然カウンターから走り出てきて女性に詰め寄った。彼女は小さく首を振って見ていないと答えた。知らないことは答えようがないのだ。それを見たサニアがふらりと立ち上がる。そのまま外に向かおうとするその肩を、後ろから伸びてきた手が引き戻した。
「どこへ行こうってんだい」
「放して母さん。あの子たちとあの人がっ!」
「おまえが行って何になるってんだい! 自分の身体と仕事を思い出しな!」
なおもタリアを振り払おうとするサニアの前に誰かが立ち塞がった。
「私が、行きますから」
マリコだった。静かに宣言して自分を見つめるその目には、サニアがこれまで見たことのない色が宿っている。気圧されたサニアがびくりと身体を固くするその一瞬の内に、身を翻したマリコはするりと戸口をくぐった。
「待たれよ、マリコ殿。私も共に……、エリー、後は任せる故、戦闘準備」
マリコに続こうとしたミランダは一旦立ち止まると振り返り、そこにいたエリーを指差して指示を飛ばすと、改めてマリコの後を追う。言われた方のエリーはきょとんとした顔をした後、力強く頷いた。
「ほれ、しゃんとしな。あたしもマリコたちを追わなきゃならないから、ここは頼んだよ。何するか、分かってるね?」
気掛かりもあり、戦力的にも責任という意味でも、タリアには現場に行く必要があった。となれば、後方を任せる相手は一人しかいない。
「ええ。エリー、上の鐘を連打。探検者にも集まってもらわないと」
「ん。ジュリア! 連打!」
階段に足を掛けたエリーが上に向かって怒鳴る。上の階で待っていたジュリアからはーいと返事があった後、先ほどとは違う音色の鐘の音が響き始めた。それを見届けたタリアは食堂を後にする。着替えている余裕はないが、長剣は必要になりそうだった。
◇
「マリコ殿! くっ、速い」
マリコはついてくるミランダを徐々に引き離しながら駆けていた。アリアに、ハザールに、ついでにカミルに生命の危機が迫っていると分かった瞬間から、マリコの頭には一つの考えしか浮かんでいなかった。
(そんなことは許さない、そんなことは許さない、そんなことは許さない)
静かに、しかしドロドロと流れる溶岩のような熱さで、その思いだけが脳裏に渦巻いていた。
今、マリコの手には大鎌が握られている。それは数日前に嬉々として使った、あの大鎌である。この三日間、毎夜マリコとカミルたちは翌日のために手持ち鎌の研ぎ直しや強化の掛け直しをやっていた。その度に一緒に引っ張り出してはいじっていたので遂にはカミルに言われたのである。
――それも何本かあるんだから、今マリコさんが一本取り込んでたってお義母さんも怒りゃしないよ
タリアが笑って許してくれたので、これは事実上マリコの専用物と化した。その得物を手にマリコは駆ける。
宿屋の門を出ると正面に見えている転移門。その門に近づいた時、マリコの目にも放牧場が見え始めた。
2017/02/13 イラスト追加。ゆゆゆ様より頂きました。
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